三が日くらいは店を閉めろ!!

元日の昼は老母のところへ家族で行き、昼食を一緒にするのを父の没後の習わしといたしております。母は既に成人した孫たちを未だオシメの取れない「可愛い生き物」として扱い、還暦目前の愚生を未だランドセルを背負った子供扱いをいたしております。「何も作るな!!イマドキは元日でもなんでも買えるからいろいろ買って持って行く」と言っておきますが、大晦日から伊達巻やら煮豆やら紅白のなますやらを手作りでやらかすもんですから、実は流石に八百比丘尼が如き妖怪も昨今では動きが鈍くなっているので、元日当日は疲れ切っている様子で、横になっていたりします。あくまでも笑い話のレベルですが。

そもそも、お節料理なるものは、三が日は店も開いておらず、また、調理の手間も省けるというところから「開発」された我が国伝統の文化であり、特に豪華なものを使うのではなく、日持ちのするものがそれなりに並んでいたはず。それが、何故か、ゴージャスな御重に伊勢海老やら高級卵焼きやらが入ったものが横行しているのは、本末転倒も甚だしいと感じてしまいます。日持ちのするものを作りおく文化が出来合いのものを販売する形に変わってしまったのもひとつの文化の変革であり、全否定はできませんが、当初の目的と言うのは一体何だったのかを忘れてしまったのは残念の極みです。

それにしても、大きな看板を掲げた百貨店、量販店、コンビニ等は元日でも店を開け、商魂たくましいというよりは痛々しいものです。三が日に店が開いているならお節料理のような「保存食」の必要性が無くなったと考えたいのですが、それでもお節料理というものが販売されているというのは、実は矛盾以外の何ものでもないというのが愚生の意見であります。しかし・・・昔は静かで穏やかな三が日であったような記憶があるのに、昨今では24時間365日、店が開いていて、人々が不必要に忙しなく動き回っているのを見ると、心の余裕を失ってしまい、「忙しい=エラい」という誤解がこの世を支配しているように見えてなりません。

コンビニエンスストアなるものが其処此処の街角に出現した昭和50年代、それでもその名の如く「朝7時から夜11時まで」というのがコンビニエンスであったのに、今では、どこもかしこも24時間営業、そして、なんでも手に入る状態を作り出してしまい、その結果、若者はその店先に屯し、不要で不毛な、生産性の無い時間を過ごすようになりました。つまりは街の劣化と少子化の最大の要因でしょう。ですから、ここで、敢えて言ってみます。全ての店舗は夜11時から朝7時まで、シャッターを下ろすべし。そして、三が日くらいはどこの店も営業してはならない・・・と。「そんなのムリぃ〜・・・」と言う声が聴こえてきそうですが、実際、昭和50年頃まではそんな状態で、この国は今よりも高度な成長をしつつ存在していたのですから。

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振り込め詐欺師と騙され与太郎

愚生の母は85歳で独り暮らしをしております。頑固者の父が6年前に天寿を全うし、頑固者の一人息子である愚生が、頑固者の家内・頑固者の子供たちとともに同居を申し出たのですが、当時79歳で頑固者の母は頑なにそれを断りました。あれから6年、未だに頑固者の親子は同居するに至らずとも、欧米流に言えばスープの冷めない距離に居住しております。今年の夏、そんな母のところに振り込め詐欺師から電話がありました。愚生を装い、「集金した小切手を電車に忘れてしまった。今日中に会社にそのお金を入れないとクビになってしまう。」と言ったそうです。愚生、零細企業ながらも、経営者の立場であり、クビになることはありえないことを知っている母、そして頑固者で、中途半端に機転が利く物知りババァでもあります。それは、愚生が「親の顔が見たい」と常々言われるほどの理屈こね屋ですので、騙されたふりをしつつ、「今、どこにいるの?」「どこまでお金を持って行けばいいの?」「お金の用意ができたら電話するから電話番号を教えてちょうだい」等々、相手の所在を引き出すための質問を多々ぶつけました。残念なことに、相手の方が一枚上手だったと見え、途中で電話を切られてしまったとのことです。

・・・と、ここまでが前置きとなってしまうのですが、世の中にこれだけ振り込め詐欺の話題が飛び交い、ましてや、余程のことがない限り、おいそれと百万、千万単位のお金を即座に必要とする人などいないはずなのに、まんまと引っかかる方が多いことに腹が立ちます。敢えて反論や批判を怖れずに申し上げますが、振り込め詐欺は引っかかる方が悪いのです。街を歩いていたら「お金頂戴」と声をかけられて、「はいよ」と渡すバカはそうはいないでしょう。仮にそれがコワモテだったとしても、何とか逃れる方法を考えるでしょう。それなのに、この詐欺に引っかかる方は喜んでお金を詐欺師に渡しているのです。それをメディアはあたかも騙された人には全く責任が無いが如き報道をします。当然、詐欺師が犯罪を行っていることは否定いたしませんが、騙された側にも騙された「責任」と「代償」が発生しても仕方ないような気がします。

愚生の少年時代、縁日に行くと、「お代は見てのお帰りだよ」という言葉をつけて、「ナントカ山の6尺のオオイタチ」とか「印度の山奥からやってきた蛇少女」とかを上演している見世物小屋がありました。いくらの代金なのかを一切知らされず、それでも、好奇心から中に入ってしまい、当然、「戸板に血のりがついたもの」を見せられたり、「今日は蛇少女は怖がって出てこない」と言われたり・・・それでも、出口では、多分、現代の貨幣価値では500円〜千円程度を取られ(盗られ)、「勉強になった」という経験をしました。

振り込め詐欺師は現代の見世物小屋に過ぎず、単にその値段があまりに高額なだけ・・・と考えるのは行き過ぎた表現だとは思います。しかし、百万、千万単位のお金を払ってその「芸」を見せられてしまったのだから、見世物小屋と何ら変わりはありません。ですから、「オマエには人の心は無いのか?」と言われても結構ですが、お金を払ってしまった方々には「騙され与太郎」の称号を差し上げます。与太郎と言われたくないのなら、簡単なことです。騙されなければ良い・・・ということです。願わくは、詐欺師の皆さんには、そうやって手に入れた大金の一部でも被災地復興への義捐金に寄付してくれませんかね。そうすれば、「平成の鼠小僧」くらいの称号を与えてやりたいと思います。

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専業主婦が格上・働く女性が格下

1986年、俗にいう男女雇用機会均等法が施行されました。その年、愚生、某上場企業の係長職に最年少で就き(自慢しております)、部下を迎える立場にありました。それまでの「大卒男子・大卒女子」なる表現が「総合職・一般職」と言い換えられたばかりなのですが、新卒の総合職1名、一般職1名が愚生の係に配属が決定いたしました。その時点での状況説明を正確にすると、それだけで相当な字数になるので簡単にまとめますと、それまで、営業三課総勢約十名というくくりの中、係に分かれていなかったところで、3つの「係」が新設され、2名増員・・・一係長、二係長がそれぞれもともと在籍していた課員を三名づつ部下として持ち、三係長の愚生には新卒2名の部下を与えるという、今考えればパワハラの極みのようなものでした。

5月の黄金週間が終り、愚生にとって人生初の「部下」2名が一カ月強の研修を終え、配属になりました。大卒の「総合職女子」と「一般職男子」が配属されました。当然、逆の構成を想像していたのですが・・・そして、女子は「お茶汲み・コピー取りは私の職分ではありません」とばかりに、配属早々からそこそこ言われた仕事をこなしておりましたが、一般職を希望した男子君--「転勤したくないから」「残業とか嫌だから」という理由だったそうですが--お茶汲み・コピー取りのみをやりたがりました。約2年後、このお茶汲み男子君は「会社がこんなに大変なところだとは思わなかった」と辞めていき、別の仕事に就きました。その翌年、バリバリ総合職女子は結婚し、「主婦になります」と幸せそうに辞めていきました。二人のその後がどうなったか・・・人望の無い「上司」には年賀状すら来ませんので想像もつきません。

さて、本日の題に「専業主婦が格上」と書いたのは、当時の発想・・・いわゆる「寿退社」というイメージがあり、20代後半にもなって嫁ぎ先も無いような女性は「負け犬」であり、本来は「玉の輿」に乗り専業主婦になったものが「勝ち組」であったというところからです。昨今では、その発想が逆転し、30前に結婚するような女性(男性もか?)は能力が低いといった見方をし、子育てをしているなどというと「大変ねぇ〜・・・ワタシにはムリだわ〜」なんぞと見下したように言うのが「勝ち組発言」であるという大いなる勘違いが横行しております。つまり、出産という女性にしかできない崇高な行為をマイナス要素と考え、子育てというこれまた何にも代えがたい行為を蔑む逆転現象がこの30年間で定着したようです。これは大変嘆かわしいことです。「働く女性」なるものを賞讃し、「子育てをする女性」を軽蔑するような風潮が今日の少子化の最大の要因であり、本来は逆であること、つまり、出産〜子育てこそが崇高な行為であり働くというのは下賤の行為であることを忘れてしまったからです。

「彼はその聖剣で闘いぬき、国を支配した。そして彼女はその微笑だけで彼を支配した。」といったフレーズは中世の欧州における物語に多々出てきます。労働=闘いは、戦闘要員である下賤のものに任せ、崇高な出産・育児とその微笑だけで愚かなオスどもを支配できる素敵な女性が絶滅危惧種となり、下品で下等な労働者になろうとする女性が増殖しているのですから、この風潮が全世界的に広まれば当然人類が滅亡の一途を辿ることになります。誤解されている方がおられるといけないので、もう一言加えておきますが、これは「働く女性」を蔑視しての記事ではありません。傾城の美女(外見・内面を兼ね備えていなければそうななりえない)が根絶されてしまった今の時代を嘆いているだけであります。

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膳の左側に味噌汁・・・

トモダチの少ない愚生にとって、外でのメシというものは苦痛でなりません。最近では、「おひとりさま」用のパーティションで区切られたカウンターのあるラーメン店等もでてきているようですが、この界隈には無く、概ねチェーン店の牛丼屋やラーメン店のお世話になることが多いです。別項で「ファミレスの4人席に一人で座れないオレ」については近々書こうと思っておりますが、今日は、牛丼屋さんの配膳の謎について気になったので書いてみます。

実は、本日の昼食をひとりで某牛丼屋に行き、違和感を憶えたので書いているわけですが、愚生はナントカ定食なるものを頼み、お膳にのせられたそのナントカ定食がでてきました・・・というところから話は始まります。左にご飯、右に味噌汁、右奥にはサラダ、左奥には主菜といった配置で、その中央部に申し訳程度の香の物・・・当然の配列であろうと考えます。カウンター越しの反対側に40代と思しきオッサンと、金髪の若僧が座り、愚生と同じナントカ定食を頼んでおりました。「ケッ・・・主体性の無い連中だ・・・」(こんなことを考えるあたりが協調性の欠落と妄想癖の塊である証のような気もしますが・・・)

連中のナントカ定食が出てきました。40歳前後と思しきオッサンが、お膳の上の配列を変えております。まず、主菜を右手前に置き直し、味噌汁をその奥に置き、ご飯を右側に・・・茶髪が言いました・・「何で並びを替えてるんですか?」・・・すると、オッサン、「お前のような若いヤツにはわからんだろう」というようなことをのたまいつつ、「あるべき姿」なる表現をしておりました。茶髪が「だって、子供のころ、ばあちゃんが『お茶碗持つ手』とかうるさくて、味噌汁を右側に置いたらぶたれたことがあって・・・」こともあろうに、オッサン、「オマエの婆さんは世間の道理を知らないんだな。」

「オッサン、大丈夫か???」とか考えながら、ふと、我が膳に眼を落とすと、前述のとおり、愚生の考える「正しい配列」であり、ホッとしているところへ、隣の席に牛丼と味噌汁を運んできた店員・・・客から見て右に牛丼、左に味噌汁を当たり前のようにおいていきました。愚生の中で「何かの美学」が否定されたような気分でしたが、ちょうど喰い終わったところなので店を後にしました。仕事場に戻ってから、ネットで検索してみると・・・「味噌汁は左にあった方が合理的だ」とか、「そんなことでめくじらを立てるジジィはウザい」とか・・・はい、そうですか?・・・何やら「様式美」というものは、この世から消え去っていく過程にあるようで、小さな「やるせない」がその後、何時間にもわたって心の一部を支配しております。どうしたらいいのだろう・・・

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バカとガクシャをテレビジョンに出すな

日々、テレビジョンの画面には多くの方々が登場しています。昔はジャンルによる棲み分けができていたような気がしますが、昨今ではファジーなる言葉のせいでしょうか・・・コメディアンや歌うたいのタレントがニュース解説番組で喋ったり、はたまた本来「学者先生」である方々がバラエティ番組の「おばかさん」を担当したり、玉石混淆を通り越し、悪貨が良貨を駆逐した感が否めません。

まず、学者先生の一部が、ちょっとしたダメキャラを演じるのは、「二枚目が三枚目を演じる」の面白さがあって良かったのですが、元々薄っぺらな人が間違って学者先生になってしまっていて、その方がダメキャラを演じるというのは、残念なことにその学者先生のタイトルがある以上、「大先生でもバカなんだ」という誤解を発生させます。(これを仮称モリナガタクロー現象とでもしておきましょう)  逆に、頭の悪い人がちょっと難しい言葉を遣ったりすると、「実はそれなりにできるんじゃないの?」的な評価を受け始め、豚も煽てりゃ木に登ることが発生し、何だかそれなりの論客として扱われ、ナントカの御意見番とか言われ始めることが垣間見られます。(これを仮称シマダシンスケ現象とでもしておきましょう)

そして、そのモリナガ現象やシマダ現象の行きつく先は、バカもガクシャも皆同レベルという間違った考え方で、愚民にとって一番嬉しい「高貴な人が貶められる姿」と「下賤な民が天下を獲った姿」が高視聴率の原動力となります。シマダ現象のバカ達は、煽てられまくって、気が付くと自分が「凄い人」なのかと考え始め、併せて高額所得者となっていきます。利巧なガクシャ先生は、適度なところでその露出を控えますが、ニセモノはタイトルだけを利用し、実際の研究研鑽を忘れ、タレント業での高額所得を求め、まさに魂を金で売った形になります。

このスパイラルが所詮バカに過ぎない連中に余計な期待感と自信を植え付け、逆転現象のようにバカの方がエラいという勘違いを発生させ、事実上の学力低下そして国力の低下に結びついているのが今日の我が国の現状のような気がしてなりません。「〇〇が言っていたから本当だろう・・・」この〇〇にはいるべき固有名詞は本来、大先生のものであり、それは、国会議員であるとか、大学教授であるとか、そういう人々であったはずなのに、今日では、そういう大先生をクサすことことが世の流れで、大先生側も、へりくだりすぎるためか、どんどんその価値が下がり、これまた知識のデフレ・スパイラルに陥ってしまいました。本来、コミュニティ、自治体、そして国家のリーダーは、高いIQとEQと資質と人間性を具えた人々であるべきなのに、気が付けば「市民派」「庶民派」をウリにしないといけないという不思議なスタンダードが出来上がりました。さて・・・この先は如何なりますやら・・・

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続・ 呪えるもんなら呪ってみろ!似非霊能者どもめ!

2年ほど前に呪えるもんなら呪ってみろ!似非霊能者どもめ!などということを書いてみたのですが、「ホンモノの霊能力者」様から素晴らしいコメントを頂戴した程度で済みました。あれも、ちょうど世間がお盆なる時期でしたが、またしてもこの時期に素敵な霊能者様にありがたいお言葉を頂戴したので、少しばかり何か書いてしまおうと思います。

先週、「見込み顧客」を紹介されました。先方に伺ったところ、一般的な時候の挨拶の後、いきなり何やらスピリチュアルなお話が始まりました。その方は前世において非業の死を遂げ、死後、修業を積み、不幸な方々を救うためにお釈迦様の命を享け、今世にお越しになったのだそうです。そして、愚生に対し、何やら御先祖様(明智光秀の家臣らしいです)の悪行によるカルマが災いしているので、除霊した方が良いとか申されます。この不況下、喉から手が出るほど仕事が欲しかったとはいえ、こういう手合いに関わるとそれこそ末代まで祟るので、仕事の話も霊の話も丁重にお断りし、そそくさとその場を辞してまいりました。

仮に、明智光秀の家臣が御先祖様にいたとして(そんな事実は知りませんが)、その方は愚生の15代から20代前のご先祖様ということになります。仮に15代としても、愚生を構成しているDNAの32,768分の1のDNAしか合致しない計算が成り立ちます。(20代とすると100万分の1以下になります) 「愚民」は「御先祖様」という漠然とした言葉に惑わされますが、15代前まで遡ったら、3万人もの御先祖様が存在しますので、その中に罪人や悪人の一人や二人いて当然です。そして、お釈迦様(これが他の宗教の信仰対象であっても同様)は寛容なのですから、それを許さないのなら全ての人類に悪いカルマが存在し、いっそのこと滅びてしまうべき存在であるというのが正しい発想でしょう。それでも70億人の人類がこの地上に存在し、日々の営みをしているのですから、そのような「祟り」は存在せず、個々の人格による善と悪の使い分けが「あるべき姿」ではないのでしょうか。

ここまでの文章では言いたいことを全て言っているわけではありませんが、要するに・・・自称霊能者の皆さんはこういう表現をしている愚生に対し絶対に良い感情を抱くことは無いでしょうから、呪えるもんなら呪ってみろ!!と再度申し上げます。世の中の似非霊能者全員によって愚生が地獄の業火に焼かれるほどの呪いをかけられたとしたら・・・愚生の耳の後ろが少しばかり痒くなる程度のことは起こるかもしれませんね。さて、経の読める立場上、近々、御先祖様の墓参りでもしてまいりましょうか。それを矛盾だと仰せなら、これまた応えておきますが、経を読むのは自らの修行でありますので誤解の無いように。

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柔道は危険なスポーツか?

還暦間近の身でありながら、未だ出場できる大会があればできる限り出場している現役選手であり、さいたま市柔道連盟の役員であるという立場から、ここ数年、知人に会う度に「セクハラの方ですか?パワハラの方ですか?」と問われることが多く辟易しております。通常は「両方です。」と躱すことにしておりますが、いずれにしても、糞蠅メディアが「柔道をやっている者はすべて犯罪者」のような報道ばかりしていたので仕方ありますまい。

数年前から柔道が義務教育課程の中で一部必須化されたようですが、それに伴い、メディアがどこそこで事故があったという報道を好んでしている為、「柔道は危険である」との通念ができあがったようです。教育課程で必須化されているにも関わらず、我が国の柔道人口は減少の一途を辿っておりますが、元々「華」の無い種目である上に、「危険だ」という社会通念ができあがり、更にセクハラ問題、パワハラ問題で加速的に人気を失っていったのでしょう。今日は「危険」というポイントで語っていますが、実は競技者人口から割り出すと、陸上や水泳の方が事故率が高いということは意外と知られていません。

学校教育で柔道の事故が発生する最大の理由は指導者の問題です。個々の教員を責めるべきでは無いのですが、現在、体育の教員でそれなりのレベルの柔道経験者はほんの一握りしかいません。これを「柔道をやっているヤツは頭が悪いから教員採用試験に合格できない。」と揶揄する向きもありますが、それはさておき、「体育」と十把一絡げの表現の中、当然ひとつの学校にそれなりのレベルの指導者が存在しなくなるのは当然のことです。そして、そういう学校の授業で柔道をやると、脳震盪や骨折に関わる経験者ならではの知識が無いまま、その防護策を教える前に、生徒の興味を引くために試合形式の授業をやってしまって事故に至った事例は数多発生しております。ましてや、授業回数10回やそこらで、受け身から先のことなどできるわけがありませんから仕方ありますまい。

また、良く「柔道やってる人は受け身が取れるから転んでも痛くないんでしょ?」などと、真剣に言う方がおられますが、受け身とはあくまでも怪我を防ぐもので、痛みは多少和らげられるとはいえ、痛いものなのです。そういった誤解をした無知な指導者が無茶な指導をすれば怪我人が出て当然です。ですから、柔道は危険であるとの認識をお持ちの永田町や霞が関の偉い先生方には、是非「危険であるから、正しい指導者による指導を必須化する」という方向性を打ち出していただきたいものです。結論として申し上げますと・・・柔道は・・・危険なスポーツであります。

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