続・ 呪えるもんなら呪ってみろ!似非霊能者どもめ!

2年ほど前に呪えるもんなら呪ってみろ!似非霊能者どもめ!などということを書いてみたのですが、「ホンモノの霊能力者」様から素晴らしいコメントを頂戴した程度で済みました。あれも、ちょうど世間がお盆なる時期でしたが、またしてもこの時期に素敵な霊能者様にありがたいお言葉を頂戴したので、少しばかり何か書いてしまおうと思います。

先週、「見込み顧客」を紹介されました。先方に伺ったところ、一般的な時候の挨拶の後、いきなり何やらスピリチュアルなお話が始まりました。その方は前世において非業の死を遂げ、死後、修業を積み、不幸な方々を救うためにお釈迦様の命を享け、今世にお越しになったのだそうです。そして、愚生に対し、何やら御先祖様(明智光秀の家臣らしいです)の悪行によるカルマが災いしているので、除霊した方が良いとか申されます。この不況下、喉から手が出るほど仕事が欲しかったとはいえ、こういう手合いに関わるとそれこそ末代まで祟るので、仕事の話も霊の話も丁重にお断りし、そそくさとその場を辞してまいりました。

仮に、明智光秀の家臣が御先祖様にいたとして(そんな事実は知りませんが)、その方は愚生の15代から20代前のご先祖様ということになります。仮に15代としても、愚生を構成しているDNAの32,768分の1のDNAしか合致しない計算が成り立ちます。(20代とすると100万分の1以下になります) 「愚民」は「御先祖様」という漠然とした言葉に惑わされますが、15代前まで遡ったら、3万人もの御先祖様が存在しますので、その中に罪人や悪人の一人や二人いて当然です。そして、お釈迦様(これが他の宗教の信仰対象であっても同様)は寛容なのですから、それを許さないのなら全ての人類に悪いカルマが存在し、いっそのこと滅びてしまうべき存在であるというのが正しい発想でしょう。それでも70億人の人類がこの地上に存在し、日々の営みをしているのですから、そのような「祟り」は存在せず、個々の人格による善と悪の使い分けが「あるべき姿」ではないのでしょうか。

ここまでの文章では言いたいことを全て言っているわけではありませんが、要するに・・・自称霊能者の皆さんはこういう表現をしている愚生に対し絶対に良い感情を抱くことは無いでしょうから、呪えるもんなら呪ってみろ!!と再度申し上げます。世の中の似非霊能者全員によって愚生が地獄の業火に焼かれるほどの呪いをかけられたとしたら・・・愚生の耳の後ろが少しばかり痒くなる程度のことは起こるかもしれませんね。さて、経の読める立場上、近々、御先祖様の墓参りでもしてまいりましょうか。それを矛盾だと仰せなら、これまた応えておきますが、経を読むのは自らの修行でありますので誤解の無いように。

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