振り込め詐欺師と騙され与太郎

愚生の母は85歳で独り暮らしをしております。頑固者の父が6年前に天寿を全うし、頑固者の一人息子である愚生が、頑固者の家内・頑固者の子供たちとともに同居を申し出たのですが、当時79歳で頑固者の母は頑なにそれを断りました。あれから6年、未だに頑固者の親子は同居するに至らずとも、欧米流に言えばスープの冷めない距離に居住しております。今年の夏、そんな母のところに振り込め詐欺師から電話がありました。愚生を装い、「集金した小切手を電車に忘れてしまった。今日中に会社にそのお金を入れないとクビになってしまう。」と言ったそうです。愚生、零細企業ながらも、経営者の立場であり、クビになることはありえないことを知っている母、そして頑固者で、中途半端に機転が利く物知りババァでもあります。それは、愚生が「親の顔が見たい」と常々言われるほどの理屈こね屋ですので、騙されたふりをしつつ、「今、どこにいるの?」「どこまでお金を持って行けばいいの?」「お金の用意ができたら電話するから電話番号を教えてちょうだい」等々、相手の所在を引き出すための質問を多々ぶつけました。残念なことに、相手の方が一枚上手だったと見え、途中で電話を切られてしまったとのことです。

・・・と、ここまでが前置きとなってしまうのですが、世の中にこれだけ振り込め詐欺の話題が飛び交い、ましてや、余程のことがない限り、おいそれと百万、千万単位のお金を即座に必要とする人などいないはずなのに、まんまと引っかかる方が多いことに腹が立ちます。敢えて反論や批判を怖れずに申し上げますが、振り込め詐欺は引っかかる方が悪いのです。街を歩いていたら「お金頂戴」と声をかけられて、「はいよ」と渡すバカはそうはいないでしょう。仮にそれがコワモテだったとしても、何とか逃れる方法を考えるでしょう。それなのに、この詐欺に引っかかる方は喜んでお金を詐欺師に渡しているのです。それをメディアはあたかも騙された人には全く責任が無いが如き報道をします。当然、詐欺師が犯罪を行っていることは否定いたしませんが、騙された側にも騙された「責任」と「代償」が発生しても仕方ないような気がします。

愚生の少年時代、縁日に行くと、「お代は見てのお帰りだよ」という言葉をつけて、「ナントカ山の6尺のオオイタチ」とか「印度の山奥からやってきた蛇少女」とかを上演している見世物小屋がありました。いくらの代金なのかを一切知らされず、それでも、好奇心から中に入ってしまい、当然、「戸板に血のりがついたもの」を見せられたり、「今日は蛇少女は怖がって出てこない」と言われたり・・・それでも、出口では、多分、現代の貨幣価値では500円〜千円程度を取られ(盗られ)、「勉強になった」という経験をしました。

振り込め詐欺師は現代の見世物小屋に過ぎず、単にその値段があまりに高額なだけ・・・と考えるのは行き過ぎた表現だとは思います。しかし、百万、千万単位のお金を払ってその「芸」を見せられてしまったのだから、見世物小屋と何ら変わりはありません。ですから、「オマエには人の心は無いのか?」と言われても結構ですが、お金を払ってしまった方々には「騙され与太郎」の称号を差し上げます。与太郎と言われたくないのなら、簡単なことです。騙されなければ良い・・・ということです。願わくは、詐欺師の皆さんには、そうやって手に入れた大金の一部でも被災地復興への義捐金に寄付してくれませんかね。そうすれば、「平成の鼠小僧」くらいの称号を与えてやりたいと思います。

  • *-*-*-*-*-*-*-*-

ブログランキングに参戦中。面白かったと思われたらクリックしてください>>>