侵略者達

我が国には亡国運動がはびこり、二言目には大陸や半島の国家に対する戦後責任やら謝罪やらをお題目のように唱える非国民が増殖しております。戦後七十年とやらでその風潮が増々盛んになってきている中、「正しい愛国者」の方々が「検証と解決」を求めていることも真実ですが、それらは日々増殖する「愚かな自虐性精神疾患」により「歪んだ愛国者もどき」と同等に扱われているのが悔しくてなりません。ただ、面白い(などと言ってしまうあたりが、愚生も自虐的ですが)のは、未来永劫謝り続けるべきと唱える非国民にとっても、竹島問題・尖閣問題には様々な意見がありそうです。

大東亜戦争終結後、我が国が実質的には米国の統治下にあった時期に、国際社会から国家として認められていなかった大韓民国というもの*1が李承晩ラインとやらを勝手に決め、鬱陵島*2及び竹島を自国の領土であると主張しました。その後、大韓民国なるところでは何度かの「革命」がおこり、第一共和国〜第五共和国に至るものを経て第六共和国である金泳三大統領時代、即ち1990年代にやっと現在の「国家」が成立したと考えられます。当然、李承晩時代に「勝手に占領した」鬱陵島竹島は全くの不法占拠であり、軍事的侵略であるので、元々の所有者に返すべきところを、未だに「実効支配」しております。

ところで、忘れてはならないのはあとひとつ、「北方領土」がソヴィエト連邦共和国に侵略され、その国家が無くなったにも関わらず、未だにロシアという国がそこを不法占拠しているということです。このいくつかの島々は、終戦を8月15日とするか9月2日とするかの解釈の違いにより発生した「空白の戦闘期間」をソヴィエト連邦が利用して占領したわけです。(決して報道されなかったと記憶しておりますが)鈴木宗男氏及び高野博師氏等が多方面からロシアとの返還交渉を行い、あと一歩のところで、民主党*3がそれを反故にし水泡に帰したようです。また、愚生の少年時代、学校の先生はこの北方領土竹島尖閣について、何ら教えて下さらなかったし、今頃になって領土問題と言われても、「え?そうだったの?・・・」としか言いようのない状態を、前述の自虐的非国民達の亡国教育により植え付けられたとしか言いようがありません。そんな話をとりまとめて考えますと・・・戦後七十年と言いますが、その戦争が終わった後で、「小さな戦争」が発生し、我が国は闘わずしていくつかの領土を「搾取された」という考え方が成り立つのではないでしょうか。

そこで・・・正しい愛国者の皆様には当然、「フ・ザ・ケ・ル・ナ!!!」とドヤされることは覚悟の上で、且つ、この件に対しては意外と自虐的非国民の方々ですら愚生の意見には反対と仰ると思いつつ申し上げます。この際ですから、我が国の歴史に刻んだら如何ですか?「1953年大韓民国傀儡政府が鬱陵島及び竹島を武力で制圧し、我が国から搾取した。その後、我が国は返還を求めるも、武力により支配し、彼の国は領有権を主張し続け、2015年ついに我が国は『屈服』しその領有をあきらめた。」・・・・もちろん、愚生も正しい愛国者でありますので、このようなことは許し難いと思いますが、実質的には武力により占領されたまま、「日本海の腫物」として未来永劫続いてしまいそうです。よって・・・そこに少しだけ条件をつけましょうか・・・「その見返りとして、大日本帝国及び日本国が直接、間接的にその建造にあたった施設全て(当然、港湾・橋梁、鉄道を含みます)を全て日本国の所有物とし、大韓民国はその使用料を支払う」といった条件を。

***皮肉的に自虐的表現を取り混ぜて書きました。尚、日本が行なった人類史上類を見ない残酷な植民地支配の証拠写真というサイトの一部を参考にしました。

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*1:独立国家ではないのですから、現在のISILのような存在でしょうか

*2:鬱陵島についてはあまり話題に上がりませんが、少なくとも明治時代には我が国の領土であったと推測されます

*3:一部はマトモであるが、概ね国賊により形成されている政党

〇〇と言われている

我が国には八百万(やおよろず)の神々がおられるそうです。これは、現在の埼玉県の人口より多いものです。ましてや、歴史の教科書上で仏教が伝来したと言われる6世紀末、推定される我が国の人口は3〜4百万人でしたから、それ以前に八百万という言葉が作られたことからして、人間ひとりに対し2柱以上の神様がおられた計算になります。やはり、世界に冠たる我が日本国、桁外れに神々しい国であると、基督教の大学、仏教の大学院で学んだ愚生でも誇らしく感じるものであります。

我が国が歴史の教科書に「それなりに」登場するのは概ね6世紀頃です。それまで、或いはそれ以降しばらくの間は、少なくともひとつの国家として成り立っていたのではなく多くの都市国家のようなものが存在していたのでしょう。そして、それらにその人口の倍以上の神様がついておられたのですから、さぞかし、「祭り」の形態も多岐に亘っていたことでしょう。それが、今日に至るまで、それぞれの「元都市国家」を母体とした集落でそれぞれの姿を継承してきた結果、全国各地で「奇祭」と称される、ヨソモノには理解しがたい祭りが催されている様子です。

しかし・・・昨今、その祭りの形態が妙に交雑してしまった感が強く、全く違った地方のものを取り入れつつ、無理矢理つくられた「歴史と伝統」を「この地で〇〇の神様が〇〇をしたことがこの祭りの起源と言われている」というごもっともなノーガキとともに行われるようになりました。本当の起源は実のところ、誰にもわからない場合がほとんどですし、その「歴史と伝統」も所詮は20世紀以降、古くても数百年のものに過ぎないことなのに、「太古の昔から*1」という表現さえ使えば、何やら神々しいものになります。

もっとも、これは我が国のみならず、世界中どこでも同じような「〇〇と言われている」お祭りは存在しているでしょう。所詮、「ダレソレがナニをしたらばこうなった*2」という非科学的なお話に愚民はそそられるものです。常々愚生は申しております。「数式(物理式、化学式、その他チャート類を含む)で表現できないものはあくまでも仮説或いは想像にすぎない。」と・・・

*1:柔道という明治時代から行われている種目に長年絡んできた立場から、この「太古の昔」という表現には常々不愉快な思いをしております。参考

*2:-モーゼが両腕を挙げたら海が真っ二つに割れて道ができた-日蓮上人が法華経を唱えたら神風が吹き元の船が全て沈没した-弘法大師が地面に杖をさしたら水が湧いた 等々

「年金生活者」撲滅運動

表題について書いてみようと考えたところ、何年も前に書いておりました。*1 *2 *3とはいえ、多少違った内容なのでこの際、気にせず書きなぐることにいたします。当時の趣旨は「このまま行ったら大変なことになるんじゃないかな?」でしたが、本日書くのはその改善策を提案しようか・・・といったところでありましょうか。

その過去の関連記事等をまとめると、愚生が考えていたのは「年金受給者」であることを恥じることなく、その立場を「当然の権利」として享受し、何ら社会貢献をしない老人達を憂えたものです。彼らは総じて「オレは年金生活者なんだからカネが無いんだ」と胸を張って言いますが、愚生はその人種を「公的に認められた乞食」としか思っておりません。なぜならば、彼らは労働をせず、社会貢献をせず、消費行動をせずという社会悪の塊であるからです。その年金の財源は何も知らされていない「若者」から概ね「自動的」に搾取されているのです。それなのに、ああ、それなのに・・・何度でも申し上げますが、彼らは一様に胸を張って「過去にそれなりの金額を積んできた」と、その積んできた額の何倍何十倍にも匹敵する金額を手に威張ります。そして「生活保護受給者」に対しては差別的な態度を見せ、「若いのに働かないとは何事だ!」と憤ったようなそぶりを見せます。(確かに、どこも悪くない若者が生活保護なるもので悠々自適な生活をしている事例も多々あるでしょう・・・)

そんな不合理を認めたくないと考えたごく一部の「若者」は、年金を支払わなくなり、その数が少しずつ増加しているようです。しかし、それでは彼らが「搾取」する額をほんの少し減らすだけですし、若者はやがて老人へと「退化」していくので、「やられたことをやりかえす」という負のスパイラルに陥っていきます。そして、この少子高齢化の時代、搾取する側が増大する中、搾取される側が減少している・・・それは20世紀の後半から見えてきた現実なのでしょう。

では、どうすれば良いか?・・・共産主義者の方々でも同調いただける表現「働かざる者喰うべからず」に当てはめてその仕組みを作り上げれば良いのではないでしょうか。要するに「生活保護」と「年金」は全く同レベルにとらえ、「どうしても働けない者」に対してのみ支給すれば良いのです。昨今の「普通の年金生活者」は傷つけられる矜持が小さすぎるから、「働けるのに働かない」上に「一般人にモノやカネを乞う」という愚かな行為を平気でやります。で、あれば、「年金生活者は年金を支払っている若者に唾を吐かれ小便を顔に掛けられても怒りません」くらいの誓約書を書かせれば良いのです。それが嫌なら・・・ここからが行政の出番で、小学校の全ての教室の一番後ろにそういうご老人を配備し、年金相当額くらいの手当てを支払えば良いのです。*4 暴論であることは承知の上ですが、そのご老人達から愚生が半世紀ほど前に教わったことを言っているだけです。そう・・・「汗をかいて手にしたオカネは尊い」のです。

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*1:「働かざる者大いに喰らう21世紀」

*2:「甘えるな!老人達よ」

*3:「昔の美談が負の遺産―年金という世代間マルチ商法―」

*4:既にそれに近いことをやっている自治体があると言いますが、全体から見たら微々たるものです

「飲酒」と「喫煙」のどっちが悪者かな?

「オトコが一度始めたことを簡単に止めるもんじゃない」と少年時代から父に言われておりました。愚生が中学生になった頃、その父が「禁煙」をした際に、「お父さんは何故、一度始めたことを止めたのか?」と問うたところ、「『簡単に』は止められなかったぞ」と不思議な理論を振りかざしてきました。思えば、このようなヒネクレモノのDNAは遺伝しなくても良いのに残念ながら遺伝してしまうものなのでしょう。昨今、絶滅危惧種と化して久しい喫煙者の端くれとしては、あちこちで「禁煙したら?」と言われるたびに「オトコが一度始めたことを簡単に止めるもんじゃない!!」と吠えております。

愚生の少年時代(昭和30年代〜40年代)、ニッポンのお父さんはランニングシャツにステテコパンツでテレビジョンの前で片肘を枕がわりに、巨人戦を煙草をくゆらせながらビールを呑みつつ観戦しているもので、時々、臀部から号砲を発する・・・というものでした。愚生の父は愚生同様ハイパー下戸なので、その「ビール」の部分は欠落しておりましたが、他は全て該当いたします。その時代、「飲酒」と「喫煙」はお父さんのデフォルト値であり、何処へ行ってもアルコールとニコチンの混ざった呼気が存在していたと思われます。

さて、時は流れ、元号が昭和から平成に変わった頃から、何やら「禁煙」というものが流行し始めました。喫煙者は徐々にその居場所を奪われ、主に台所の換気扇の下かベランダに追いやられるようになりましたが、飲酒に関しては全くお咎めなく、時代が流れてきたような気がします。強いて言うなら、飲酒(或いは酒気帯び)運転に対する罰則だけは強化されたと思われますが、世の中のお父さんはあの昭和中盤の頃と変わらず「酒でも呑まなきゃやってられねぇよ」とか「酒を呑まないで本音は言えねぇよ」と仰せになります。そして、酒量を誇る傾向だけはほぼ変わらず、「イマドキの若いモンは呑みっぷりが悪い」とホザき続けていますので、愚生のような「全く呑めないオトコ」に対しては相変わらず一人前扱いは無く、そのくせ、酒席の後片付け(泥酔者のアフターケア、会計処理、そして、「運転手」に至るまで)の便利坊やとしてコキつかわれ、後日、礼を言われることも無く、浴びせられた罵詈雑言に関しては「酔っていたから覚えていない」で片づけられてしまいます。

全ての喫煙者がその喫煙マナーを守っているとは言えませんが、最近では、「分煙」等のモラルがかなり定着してきており、あの昭和時代のように、駅の線路に吸殻が山盛りになるような事態は一切なくなりました。それなのに、前述の通り、「飲酒者」のモラルは昭和時代と全く変わらず愚行と蛮行の区別のつかない傍若無人な「呑兵衛」達が闊歩しております。お酒を美味しく楽しく呑んでいる方々には何も申し上げません・・・むしろ、呑めない愚生の分も楽しんでいただきたい。しかし、酒のせいにして発した「言霊」はそのまま愚生のような「素面の語り部」によって歴史に刻まれていることをどうかお忘れなく。昨夜、とある酒席で大変不愉快な思いをしたので、つい、こんなことを書いてしまいましたが、果たして「飲酒」と「喫煙」のどちらが「社会悪」なのかというと、実はほぼ同等に社会悪なんじゃないかな?という市井の片隅でひっそりと喫煙を続けているマイノリティは考えるのでありました。

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「イスラム国」を批判せず政権を批判

ここしばらく、「イスラム国」(以下、政府見解を尊重し、ISILと記載します)の人質事件がトップニュースとなっております。この報道のメディアの態度について批判しようとしたら、自称:唯一の良識を持った政党であるはずの共産党衆議院議員大先生ともあろうお方がとんでもないアンポンタン発言をしてしまい、むしろそちらに絡んだ話になってしまいそうです。なるほど、キョーサントーの良識と言うのはそういうレベルなんだと考えられてしまうのなら、愚生が「本来は相当な論客であるのに愚民のカシラをやっているとはもったいない」と考えている志位氏や穀田氏が気の毒でなりません。

メディアというのは、命懸けで真実を報道している・・・という演技をしており、そこによく登場するジャーナリストと称する人種はごく一部を除いて、スクープという商品、すなわち、「原価ゼロ」と引き換えに莫大な報酬を得ている詐欺師に過ぎません。そんな詐欺師のひとりが、大博打を仕掛け、ISILに囚われていると思われる、未だ大人になりきれず戦争ごっこをしている「友人」を助けに行くという「全米が涙した超スペクタクル映画」を作りに出かけたところ、まんまと相手側の捕虜となり、今度は身代金等の「道具」として使われるようになってしまったようです。

ISILは実に良く日本の糞蠅メディアの性質を研究しています。我が国のメディアは、「断固としてテロに屈しない」等の表現をそのまま軍国主義に結び付け、全ての責任が政権にあるかのように報道します。そこで彼らは、身代金或いは自分の側の人質解放を求めるメッセージに我が国の政権批判を促す調味料を加え、交渉を優位に運ぶとともに彼らの組織に共感する愚民を一人でも戦闘員としてリクルートするきっかけを作っているわけです。本来ならば、我が国の愚鈍メディアに携わる連中がそこにまんまと引っかかり、最終的には「政権が悪いからISILがこのような行為に及んだ」と持って行くところだったはずですが、じわじわとそのようなシナリオを進めているうちに、キョーサントーのアンポンタンが余計なことをツィッターでやらかしてしまったので、その非国民行為に及べない状況に陥りました。アンポンタンの報道もかなり控えめにやっているようですが、所詮はサヨクメディア・・・他の人に先を越されると身動きがとれなくなるようです。

ここで、再度はっきりさせておくべきことは、ISILは独立した国家でも正当性のある宗教団体でもなく、単なるテロリスト集団であり、人類の敵であるということです。20年前のナントカ真理教なる連中となんら変わりなく、無辜の民の命を奪い、無知で愚かな民をたぶらかしてその戦闘員(特攻隊員)として洗脳し、人類を滅ぼそうとしているのです。ここは、ひとつ、真っ当な人類の方々・・・そして、キョーサントーでも糞蠅メディアの方々も含め、「真実」に目を向け、本来の「敵」と共闘することを考えてくださることを伏してお願いする次第であります。

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オレの神様

ここ数年、イスラム国なるものが許し難いテロ行為を行ってきた報道はさほど取り上げられなかったのですが、ついに類火が我が国の同胞にも及ぶに至り、新聞紙面とブラウン管を日々賑わせております。その件については、機会があれば更に掘り下げてみるつもりですが、こういう事態が起こると、すぐに「イスラム教徒いうものは・・・」と利いた風な口を叩くコメンテーターと称する思考回路に問題のある方々が語り始めるので、今日はその我が国の国民が持つ間違った宗教観について触れてみることにします。

愚生は、今に至るまでそうですが、幼少期にも友達がほとんどいない状態でした。小学生の頃、誰とも遊ばず、近所の神社の境内で砂遊びやら鉄棒やらを独りでやっておりましたところ、宮司さんが時々声をかけてくださり、いろいろな昔話をしてくださいました。*1そのお話で、私達の周りにはヤオヨロズの神々がおられ、私達はその神々に守られていると今日でも信じております。そんなヒキコモリの子供が中学時代に、あまりに悪さをするものだから、「本家の分家」にあたる浄土真宗の寺で修行をすることになります。そこで仏教思想に接し、極楽浄土へ向けての今生での修行をすべきであるということを今日でも信じております。そして、高校時代、米国の中西部へAFS交換留学生として1年間派遣された際、ホストファミリーの通うプロテスタント教会にほぼ毎週同行し、牧師の話に人生のヒントを得、その思想を今日でも信じております*2

やがて、耶蘇会本流の大学に進学し、教授の半数近くと生徒の何割かが敬虔な基督教徒の中で学び、その後しばらくして、曹洞宗系の大学院で学ぶ機会を得ております。ここまで申し上げてきました内容を、「それは凄い」と仰る方がおられたら、それは内容をとらえられていない証拠で、我が国の国民のほとんどがこの程度の宗教との接点を持った人生を送ってきたはずです。正月には神社に初詣に行き、葬儀は本当にそうなのかどうかわからないまま自分が所属しているらしい宗派の仏式で行い、結婚式を教会のチャペルで・・・などという人が「一般的日本国民」なのではないでしょうか?そして、大抵の場合、そういう行動様式で生活しているくせに、「オレは『無宗教』だ!」と仰せになるような気がします。*3

我が国の国民のバカ度はどこからくるか・・・その無宗教論を前面に出しつつ、一部の正しい宗教家を蔑んだり回避したりすること、それでいて、愚生の如く、基督教系の大学に通った仏教徒を「オマエはおかしい」と言うこと、そして、何よりも「正しい宗教」と「カルト」の区別がつかないこと・・・に尽きます。愚生、実際に漠然とした宗教観の中で、「オレの神様」の虚像を持ち続けて約60年の人生を過してきたのだと、最近、強く感じている次第です。無宗教でも無神論でそれを自称することは結構ですが、きっと、そういう方々には間違いなく「オレの神様」が存在していると信じたいですし、そういう他人の宗教観と全ての「正しい宗教」に対する「間違った解釈」だけはして欲しくないというのが素直な気持ちであります。

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*1:ですから、そこらの自称郷土史研究家と肩を並べるくらいの知識を持っておりますが、その件もまた機会があれば別項で・・・

*2:太線部を総合すると、愚生は神道と仏教と基督教を信じているということになります

*3:愚生、ここ10年ほど、神社に初詣なるものに行ったことがありませんとその無宗教の方に申し上げましたところ、「天罰があたるよ」と言われましたが、それは紛れも無く笑い話だと感じております。

クソクラエ!戦後70年

例年、8月上旬から15日まで、テレビジョンでは戦争特番などと称して、腐れ左翼メディアが「大東亜戦争*1の非は我が国にあり」といった番組を流しまくります。何故か今年は正月早々、「今年は戦後70年であり、我が国は『戦争責任』を見直すべきである」などと世界情勢を全く理解できていないバカ評論家がブラウン管の向こう側で騒ぎ立てております。なるほど・・・1945年に終わった大東亜戦争から70年が経過した・・・それは真実でありますが、「その話題と戦争責任の話題は全く別物ではないか?」といった意見は一切報道されません。

そもそも、その大東亜戦争が終了して70年、当時、実際に戦場に赴いた方々はどんなに若くても80代後半です。そして、戦争を始めてしまった残念な方々は開戦当時の年齢から考えたら、ゆうに百歳を超えているはずです。はたして、その「本当の戦争犯罪人*2」で存命中の方がおられるのでしょうか?答えは絶対にNo!でしょう。御先祖様の負の遺産としての「戦争責任」が存在するとしても、それらは既に「時効」が成立しているという考え方は持たないのでしょうか。

更に言うなら、大東亜戦争だけをことさらに取り上げていますが、今年は第一次世界大戦終戦からみれば百周年、ワーテルローの戦から二百周年、そして大坂夏の陣から四百周年となります。そういった重要事項はほとんど報道せず、切り離して考えるべき「戦争があったという事実」と「戦争責任の所在」を混同させて我が国を貶める自虐的表現ばかりを使用する国賊が我が物顔にテレビジョンに露出している姿には反吐が出るとしか言いようがありません。最近では義務教育(高等学校の教育も含め)で近代史を重視し始めているそうで、ちゃんと授業でその辺をやっているようですが、十数年前までは歴史の授業と言ったら、明治維新までとか鹿鳴館時代までで1年間が終ってしまうことがまかり通っていたので、大東亜戦争の発端以降は学校で一切教えられず、メディアに露出している売国奴の発言のみで愚民が騙されてきたのが現実でした。

我が国の一部の愚民がそんな腐れ報道に同調しているものだから、半島や大陸の後進国の指導者と称するヤカラが大衆を纏める道具として反日教育を利用するようになってしまったのです。何しろ、「私たちが悪かった」と70年間言い続けている(言い続けさせられている)のですから、後進国の連中にすればしめたものです。ですから・・・もういい加減で「戦後〇〇年」などという表現はやめませんか?今年は単純に西暦では2015年、平成27年、敢えて加えるなら皇紀2675年であれば、それでいいではないですか?

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*1:一般には第二次世界大戦などと表現されますが、実はそれは欧州大戦と大東亜戦争の同時発生であるというのが愚生の見解であります

*2:この定義も我が国のメディアは日本国民にのみ適用していますが、本来、「戦争を始めた者」のみならず、「無辜の民を一人でも殺害した者」は全て戦争犯罪人であるというのが愚生の見解です