〇〇と言われている

我が国には八百万(やおよろず)の神々がおられるそうです。これは、現在の埼玉県の人口より多いものです。ましてや、歴史の教科書上で仏教が伝来したと言われる6世紀末、推定される我が国の人口は3〜4百万人でしたから、それ以前に八百万という言葉が作られたことからして、人間ひとりに対し2柱以上の神様がおられた計算になります。やはり、世界に冠たる我が日本国、桁外れに神々しい国であると、基督教の大学、仏教の大学院で学んだ愚生でも誇らしく感じるものであります。

我が国が歴史の教科書に「それなりに」登場するのは概ね6世紀頃です。それまで、或いはそれ以降しばらくの間は、少なくともひとつの国家として成り立っていたのではなく多くの都市国家のようなものが存在していたのでしょう。そして、それらにその人口の倍以上の神様がついておられたのですから、さぞかし、「祭り」の形態も多岐に亘っていたことでしょう。それが、今日に至るまで、それぞれの「元都市国家」を母体とした集落でそれぞれの姿を継承してきた結果、全国各地で「奇祭」と称される、ヨソモノには理解しがたい祭りが催されている様子です。

しかし・・・昨今、その祭りの形態が妙に交雑してしまった感が強く、全く違った地方のものを取り入れつつ、無理矢理つくられた「歴史と伝統」を「この地で〇〇の神様が〇〇をしたことがこの祭りの起源と言われている」というごもっともなノーガキとともに行われるようになりました。本当の起源は実のところ、誰にもわからない場合がほとんどですし、その「歴史と伝統」も所詮は20世紀以降、古くても数百年のものに過ぎないことなのに、「太古の昔から*1」という表現さえ使えば、何やら神々しいものになります。

もっとも、これは我が国のみならず、世界中どこでも同じような「〇〇と言われている」お祭りは存在しているでしょう。所詮、「ダレソレがナニをしたらばこうなった*2」という非科学的なお話に愚民はそそられるものです。常々愚生は申しております。「数式(物理式、化学式、その他チャート類を含む)で表現できないものはあくまでも仮説或いは想像にすぎない。」と・・・

*1:柔道という明治時代から行われている種目に長年絡んできた立場から、この「太古の昔」という表現には常々不愉快な思いをしております。参考

*2:-モーゼが両腕を挙げたら海が真っ二つに割れて道ができた-日蓮上人が法華経を唱えたら神風が吹き元の船が全て沈没した-弘法大師が地面に杖をさしたら水が湧いた 等々