表彰の価値

何年か前、「彩の国国際貢献賞なるものを受賞する資格があるので活動記録等を提出せよ」とのお話をいただきました。「愚生如きが・・・」というありきたりな表現をしつつも、必要な資料をまとめて提出いたしました。その後、なしのつぶてであったので、すっかり忘れておりましたがどうやら選に漏れたのでしょう。数年が経過して思い出したので、どのような方が受賞されているだろうと
埼玉県のページ
を確認してみたら、その賞は名称が「埼玉グローバル賞」なるものになっていました。該当する年次の受賞者を見ると、存じ上げている方が載っておりましたが、「え?何であの程度の人が?」というような人でした・・・所詮は負け惜しみです。

年2回ある叙勲を筆頭に国民栄誉賞等、世の中には実にいろいろな表彰があるものです。亡父は十数年前に勲五等ナントカ賞を受賞することになり、辞退しようとしたところ、「今後、貴方の所属する団体、母校等からの受賞者が減ることになる」と脅され、結局受賞し、何やら「お祝い業者」達の餌食となっていた姿を思い出します。その年、愚生も「さいたま市体育功労賞」を受賞したのですが、「お祝い業者」から喧しく様々なお誘いをうけつつ、結局何もしなかったということがありました・・・この部分は自慢のように思われるかもしれませんが、愚生にとっては「事実」に過ぎないところです。

冠婚葬祭という中で、婚と葬はどなたでも縁があり、祭は大多数の人が関わりますが、冠に関しては、商売をやっている立場上、世間一般の方より格段に「お祝いをする側」として関わりますので、そういった表彰の類に関しても広く情報を得ている立場です。特に叙勲のお祝い事には年に何度か末席に加わらなくてはならず、実は面倒くさいものです。町の名士達は、冠婚葬祭に明け暮れ、「義理事の為に凌ぐ」というのが慣用句として使用されています。確かに、冠婚葬祭は経済波及効果ももたらし、葬を除けばめでたいことがほとんどですが、乾いたものの見方をすると、何のためにこんなことやっているのだろうというものがほとんどです。

多少話題がずれましたが・・・様々な表彰を見て感じるのは、実は賞を作ってしまったので、それを受賞する人物をなんとか充てなければいけない中、選考にあたる方々が差しさわりの無い且つ世間から批判されないレベルの人物を選び出し、その年の「充当」を淡々と行っているのだろうな・・・と感じている次第です。大事なことは受賞したことではなく、そこに至る活動の価値であり、いくつかのボランティア活動に携わる立場としては、結果として受賞したいとか、有名になりたいとか、そのようなことは不要であると考えております。以前書いたことがありますが・・・「記録より記憶に残る」を美しいとおっしゃった方がおられますが記録も記憶も所詮は名声欲。愚生にとっては「残せた結果が最重要」というスタンスだけは曲げないつもりです。

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