歪んだ宗教観

我が家は武蔵野国一宮、通称「大宮氷川神社」から徒歩10分程度の住宅地にあります。この氷川神社、毎年、初詣の参拝客数では春日大社伊勢神宮を凌駕し、全国のベスト10に入るそうで、三が日だけで200万人を超える参拝客があるそうです。俗人であり商人である私には、「1人100円としても2億の『売上』とは羨ましい」というのが正直な感想です。そして、徒歩10分の神社に初詣に行くことなく、正月を過ごしました。

と、このような表現をすると、途端に信仰心の厚いと勝手に思っておられる愚かな人種の集中砲火を浴びそうですが、実は仏教の僧としての修行をしたことのある身としては、そもそも神社は信仰対象ではないのです。歴史の中で、神社仏閣という存在が政治の力から逃れられる数少ない特権階級或いは特区として「なんとなく」認められてしまい、我が国の民は初詣、子供の宮参り、一部の結婚式等では神道を、身内が亡くなると仏式の葬儀を好んで行い、それでいて、バレンタインデーだ、クリスマスだと基督教の行事を取り入れております。

全能の神なるものがいたとして、我々愚かな人間がその存在の全てを理解しているはずもないのが真実でしょう。そして、人類が起こす戦争の根底にはこの宗教観の違いが大きな要素としてあり、我が信ずる神を冒涜したものを叩き潰すといったものが21世紀となった今日でも横行しております。ある先輩が、「宗教の信者数はその宗教の名の下に流された血の量に比例する」と仰っていました。

宗教とは人間の心の拠り所。そして、自らが勝手に思い込んでいる信仰を是とし、排他的になるのが人の常でありましょう。それぞれの宗教が持つ「良いところ」だけを取り入れ、巧く融合した宗教心、信仰心を持ち続けたいと考えますが、そうなると、我が国の国民は見事に神道・仏教・基督教を融合させております。あとはイスラム教をも取り入れ、更に世間を騒がせている多くの新興宗教をも取り入れ、究極の信仰をすべく、日々精進していただきたいと、「草葉の陰から」お祈り申し上げます。