日本全国奇祭だらけ

よさこいソーラン」という不思議な行事が始まったのは20世紀末らしいのですが、この土佐と蝦夷地が合体した奇妙な祭が日本全国に伝播し、今や○○よさこいソーランなんとか・・・と、地域特性などどこへやらの時代になりました。その波及力の凄さのバックグラウンドは、我が国の国民が土着性を無くし、移動しまくるようになったことが原因なのでしょう。

それにしても、祭というのは、本来神事であることは全て忘れ、日頃の憂さを晴らす道具となったのは何時の頃からなのでしょうか。多分、それは、太古の昔からであろうと想像はできます。ただ、第二次大戦頃までの我が国では、それぞれの土地を大事にしていたので、余所者が神輿を担ぐなどということは本来無かったはずなのに、今日ではあちこちの祭に出張って神輿を担ぐ人々がいるようです。しかも彼等は神に仕える者である等の自覚が全くありません。私は世間一般の人が言う「無宗教」ではなく、多くの宗教を認める「複合宗教」とでもいう立場ですが、それぞれの宗教の根本は揺るがしてはいけないと考えているので、余所者が神輿を担ぐなどということはあってはならぬと考えてしまいます。

また、神輿と山車の違いをある宗教学者の論文で読みましたが、根本的に、神輿は農業祭、山車は主に商業祭であるということです。神輿を担ぎ、田畑の畦を練り歩き、言わば地固めをし、蟲を動かすことが豊作に繋がるという農民ならではの生活の知恵を祭に取り入れたのが我が国の先達の素晴らしさであったというのに、最近では、そのようなことは一切お構いなしで、わっしょいわっしょいと騒ぐことのみに眼が行っています。更に、それぞれの囃しも、土地土地の意味を持ったものがあるにもかかわらず、最近では、どこの祭に行っても「そいや、そいや」と、本来浅草のみで使われていた声が聞かれます。

祭と暴走族の行為は似て非なるもの。唯一、祭は妙に世間に認められているというだけです。ここ数十年、祭はその目的を全く失い、人々の憂さ晴らしにのみ使われつつ・・・気がつけば商業目的でも使われ、「大感謝祭」などという不思議なものに変わってしまいました。やがて、他の記事として書こうとは思っていますが、我が国の国民の宗教観は、実に情け無いもので、祭本来の意味を考えて行動できなくなってしまったのでしょう。祭は政にも通じ、神聖なるもの。そういう意味では、表題の通り、我が国では祭が全て奇祭となってしまっているのも残念です。