オリンピックなんかやめちまえ

こんなタイトルで始めますと、日頃の「反体制派を嫌う態度」が崩れたようで、どことなく自己嫌悪を感じておりますが、どうやら世間では五輪問題は取り上げても「やめちまえ」はかなり少数派であろうと思いますし、また、自分の主張ですので今時の流行で言えば「そんなの関係ねぇ」と考えつつ書いていくことにいたします。このオリンピックという行事が平和の祭典とか銘打って、世界はひとつだとかスポーツに国境は無いだとか偽善者の世迷言に聞こえるようになったのは未だ私が中学生であったミュンヘン五輪(1972)の頃。パレスチナゲリラが選手村を襲い、多数の犠牲者が出た頃からです。

平和の祭典と称しておきながらその犠牲者が出る・・・そして、それは実は「テロリスト様、攻撃してください」と言わんばかりの警備体制の中で発生しています。その後、世界はひとつのはずの五輪に出場ボイコットが発生した1980年のモスクワ、1984年のロスアンゼルスと続き、ついに今年の自称大国のどこぞの国での開催に至ると、現状では内政問題である自治やら独立やらをアピールの場に使いたい勢力とその独立を認めない勢力とのぶつかり合いに聖火と称するババ抜きのババが通過する国々に迷惑がかかる事態にまで発展しました。そして、私の大嫌いなメディアがその聖火とやらの動きをこれでもかとばかりにブラウン管から垂れ流し、世の人々は一喜一憂している様子です。

我が国の一部愚民はその大国と独立を求める勢力のいずれかに正義を見出し、彼等にエールを送ったり支援したりしておりますが、いずれにしても愚行も甚だしい。私自身の信条である「地球市民」という立場からはそのようなくだらない論争はやめて仲良くしなさい!というのが一番言いたいところですが、実はこれは、隣家の親子喧嘩が町内会に飛び火しているレベルのハナシでしかないのです。隣のセガレが自ら月給取りとなり、自活できる立場になったことにオヤジがそれを許さないという問題に我が家の人間が口を挟む必要は無いはず。それをことさらに人権やら人道的やらいう言葉の好きなメディアが煽るものですから本来スポーツ行事の一環であるこの五輪が利用されてしまうのです。

そもそも聖火リレーというものはヒトラーがその権力を誇示するために始めた行為ですから、最もこの「平和の祭典」にそぐわないものですし、大会における試合というものは、武道の世界では、「死合い」という、言わば戦争の代替品なのです。トーナメントでは「生き残った」者が次の生存権を賭けて闘うわけですから、まさにこれは擬似的な殺し合いであります。我が国のような場合はまだ良いのですが、さして裕福でない国では大多数の国民が餓えに苦しんでいる中、国の威信を賭けて闘う選手たちにが格段に優遇され、その一生が保障されているという理不尽が存在しています。そんな無茶をして出てくる国々には「その前に自国民にパンを喰わせてやれ」と言いたいし、それなりに裕福な国は何千万円もかけてたった一足の靴を開発するのなら「そのカネで隣人にコメでも買ってやれ!」と言いたい。世界の情勢変化でメジャーなスポーツはそれぞれの世界大会が行われる時代なんですから、もうオリンピックなんぞという無駄遣いは辞めて、福祉なりなんなりに力を注ぐのが21世紀の人類のあるべき姿であろう・・・と言えば、単なるアンチテーゼではなく発展的詭弁であるということがご理解いただけるかと思います。