死刑を免れるには発狂すれば良い

山口県光市の母子殺害事件関連の報道が時々流されています。私にとってはまったくの他人事ですが、妙にやりきれない気持ちになってしまう事件です。犯人に対する腹立ちはもちろんですが、弁護士という職業の方は聖職であり、そのバッヂに示される天秤が法の平等性、そして、真実の追究を表しているべきことを否定するかのような動きに対して、更なる腹立ちを感じざるを得ません。

そもそもメディアは弱者の味方を装いつつ実は視聴率のために商業報道をしている存在ですから、100%メディアを信じてしまう愚民を私は否定し続けていますが、この件に関しては、メディアもかなりな線で「加害者の人権」なるもののみにスポットライトを当てていないので良いことであると感じております。多くのコメンテーターの方々も、その犯罪者(容疑者などという表現では足りないでしょう)の弁護人に対する疑問点を指摘しております。

過去にも多くの事件で、なぜか「加害者の責任能力」などという争点が挙げられています。人に迷惑をかける、人のものを盗むなどの行為をした者に対し、責任能力なるものを問いますが、あやまればすむこと、お金で解決できることであれば、罪に対する反省と、その弁済をそれなりの態度、金額で示せますし、支払能力が無い場合のことはまた別の争点として考えていただければ良いでしょう。

しかし、最近の、特に人の命を奪う行為に対するいわゆる弁護側は何かというと責任能力の有無だ、精神鑑定だといったカードを使い、少しでも刑罰を軽くすることによって司法産業の中での名声を勝ち得ようとしています。つまりは、悪事を働き、その時点で責任能力が無かったことにすれば罰を受けなくて良いという不思議な法的根拠に基づいた理論があるからです。今後も、このようなことは繰り返されるでしょう。キチガイは裁けないという法律がある以上は、どんな罪を犯しても、そのままキチガイになってしまいさえすれば少なくとも死刑にはならずにすむ・・・などという馬鹿げた法律はなんとか改正していただきたいものです。