著名人の回顧は罪

とある元スポーツ選手の講演会を聴きに行きました。元々、何らかの世界でトップランクに立った人の話は「いくらかは」役に立つであろうが、所詮、話のプロではないでしょうから面白いとは思えず、結構避けていたのですが、今回はそれなりに内容があり、それなりに満足致しました。というのはあくまでも、開催した方への返答で、本音のところはどうかと言うと「見事なまでのシナリオライターがいるんだな」と感じた次第です。

当初、その講演者の大先生は自らの功績を述べ、「決してこれは自分が恵まれた素質を持っていたからではない」ということからはじめました。「小中、高等学校時代には正選手になったわけではない、生まれながらに多少の身体的障害も抱えていた、でも、その種目にとにかく一生懸命*1、だった。」という内容を、ドキュメンタリータッチで、今時のアナウンサーよりも上手に(場馴れしているという表現が妥当でしょう)語りました。「夢は必ず叶う」という締めくくりで、満場の拍手を頂戴していた風でした。

私はその講演会の途中から、その障害とか逆境に立たされていたとかの部分に疑問を感じていたので、ヘソマガリの悲しい性として、感動できず、実に残念に思いますが、どうにも言葉の使いまわしなどを慎重に聞いていると、なにやら聞き覚えがある・・・つまり、過去に全く違う種目の元選手の講演会で同じことを聞いているのだ・・・ということに気がついてしまったからまあ仕方ありません。これもメディアの作り上げた「講演会マニュアル」的な部分があるせいでしょう。

夢は必ず叶うというのは確かにそうあって欲しい部分もありますが、結局それは成功者が言うから叶った夢に対する回顧として表現できるのです。だからといって努力するのが馬鹿馬鹿しいとは言いませんが、その夢を追い求めたがゆえに人生を棒にふる残念な人が世の中には多々存在するのです。この選手が本当に素質が無かったのなら実際に世界ランクの選手にはなれていないはずですし、周りの指導者もわずかでもその可能性があるから諦めさせなかったはずです。もし、全く可能性が見出せないジャンルで頑張ろうとしている人がいたら、私は「悪いことはいわないから、諦めなさい。そして新しい道を探しなさい。」といってあげるべきだと思いますし、それぞれの天分というものを探すのに、若いうちから限定するのは得策ではないと考えます。可能性は無限大だからこそ、多くのジャンルに目を向けるチャンスがあるのですから。

*1:通常私は頑なに「一所懸命」を使いますがこの講演者は「生まれてから死ぬまで一生懸命に目的に向かって」といった表現をしたのでここではこの表記にしました。