電脳至上主義

「翻訳ソフトを使用したところ、本来の意味とは違った訳をつけられてしまったので困りました。正しい訳をつけるようにするにはどうしたら良いでしょうか?」という相談をうけました。私の仕事はそういったことにお答えできるインストラクターではありませんから、そのような相談、ましてや、お取引があるわけでもない単なる知人にそのようなことを聞かれるのは迷惑至極なのですが、まあ、「おつき合い」の範疇でお答えできる範囲のことをお答えしました。

そもそも、翻訳ソフトなるものは文脈を完璧に把握しているものではなく、ましてや、人間のように「空気を読む」ことが一切出来ないものであります。因ってもともとの主旨をパーフェクトに翻訳するソフトなど不可能な存在であります。多くのソフトウエアがそうであるように、あくまでも、コンピュータというものは、人間の「手助け」をするツールであり、コンピュータが出す答えに完璧を求めてはいけないのです。といった禅問答のような答えに先方は納得したようなしなかったようなといったところでした。

私の少年時代以来(即ち昭和30年代から)世間の人の物の見方というのは「活字になっているものは信じる」という風潮が強く、それを逆手にとって、人より早く「ワープロ」なるものが使える立場になった昭和50年代にはちょっとした文書は全て活字化し、配布すると、信憑性が増す・・・というのを利用して生きてきました。昨今では、その活字も誰にでも作れる時代が来たわけで、その延長線上で、コンピュータがやることは間違いないと多くの人が考えている様子です。

「そもそも、コンピュータがこういう答えを出したがそれは違っているのではないか?」という冒頭の例のような人はまだいくらか毒され方が薄いのでしょうが、世の中には「コンピュータがこういう結果を出した」で終わりになってしまう人が多くなってきているような気がします。「空想科学小説は100年後の現実である」という考え方がありますので、実際の100年後には、人類がコンピュータに支配されていることもありえますし、その第一段階が着々と進行しているような気がしてなりません。