孝行したい時に親がいる

昔から「孝行したい時に親はなし」などと申しまして、失って初めて親孝行をしていなかったと反省するそうです。以前、その反意語として「孝行したくもないのに親はアリ」なんぞと言い、父と大喧嘩したことがありますが、実際、親孝行などというものは何を以ってして「できた」と判断するのか難しい行為であり、世の中の大多数の人がそれなりの親孝行をしてきているはずです。

一般論として、息子というものはその前に「ドラ」とか「バカ」とかを持ってくると使い易い単語です。また、外交辞令として「うちの息子は親不孝者で」と言うのは、本当に親不孝なのではなく、ほとんど「今日は暑いですね」に匹敵するご挨拶用例でしかありません。当然そこで「いやいや、そんなことは無いでしょう」という返答があって然るべきところですが、これが不思議と親孝行論となると、殊更に否定したがる親が多いものです。

50にならんとする私がいて、今年喜寿を迎えた両親がいて、私は地場で商売をやっており、父親は15年ほど前まで40年間に亙り地場で高校教師であったという図式の中、偶然にも父親と所縁のある方と知合う確率が高いもので、その都度、父親には報告をしております。ところが、そういう方々と、後日父が会うと、これでもかと言わんばかりに「うちの倅は親不孝者で・・・」と喋り捲っているようで、今度は「もう少しお父さんを大切にしたほうが良いですよ」などと意見されたりする機会のなんと多いことかと辟易しております。それも、私より格段に若い人々をもつかまえて「倅がご迷惑をお掛けしているのでは・・・」などとやらかすので、時としてこちらの立場が危ぶまれる場合まであります。

さて、そういうことで、存命中の両親に対し、私が親不孝者として存在しているわけですが、その親不孝者である事象こそが親孝行そのものであろうというのが本日の結論。人間は、特に年寄りにはガス抜きが大切だと見え、不必要なまでに親不孝者の私をあちこちで吹聴して廻っていることで、私の両親は元気そのものでおります。温泉に連れて行くだの高級な料理を喰わせるだのより、それなりの社会的地位を持ったこの私を貶める発言をすることで、親孝行になっているなら・・・私が存在していること自体が大きな親孝行なのであろうと勝手に思い込むに限ると思いますし、長生きしてくれればそれで良いとも思っております。将来、この親を失う時が来たら「もっと親孝行しておけば良かった」と、間違いなく思うことでしょうが。