責任をとる

日銀の福井総裁やパロマの社長あたりを筆頭にブラウン管には多くの方々が登場し、なにやら「お詫び申し上げます」などと言いつつ深深と頭を下げる姿を鬼の首でもとった気分のメディア関係者が更に傷に塩を擦り込むように言葉の暴力で責め立てています。と、この一文で本日言いたい事は言い尽くしたに等しいのですが、つまり、メディアは魔女狩りよろしく「こいつが悪者だ」とでも報道すればそれで仕事が終わりになるというイメージを強く感じます。

メディアは責任の所在さえはっきりすれば対応策、善後策などに関しては無関心です。事故にせよ災害にせよあくまでも事実を報道すればそれで良いわけで、恐ろしい例を出せば、事故などで目の前に救助を要する人がいてもそれを撮影する方が優先し、仮にその人命が失われてもかまわないといった姿勢です。

そして、多くの会社や組織における彼等の表現でいうところの不祥事では代表的立場にある人に「この責任をどうしますか?」とあまりにも漠然とした質問を投げかけます。さて、責任をとるとはいったいどういうことなのでしょうか。今の報道形態では、辞任することを潔しとする表現ばかりが目立ちます。きっと武士の発想で腹を切るというところに近いものなのでしょう。

大企業の社長さんは羨ましいと思います。会社経営の失敗において責任をとって辞任すればそこそこの財産は残っているでしょうから世捨て人としてでも生きていけます。私のような零細企業経営者が仮に何らかの責任をとるとして、それは辞任するということではなく、その事象に対し、如何に損害を小さくするかに粉骨砕身することです。辞めれば良いとか、仮に私財を投げ打って補償するとか、そういうことよりも、それまでに培ったノウハウを以って被害を最小限に食い止めたり再稼動できるようにするのが本来の責任をとるという行動であることに気がつかないメディアの方々はお気の毒です。