奪われた聖地

昭和40年頃、我が国の人口がちょうど1億と言われていた頃の埼玉県の人口は約350万人でありました。それから約40年、我が国の人口は1億3千万人即ち30%増ということになりましたが、埼玉県の人口は約700万人即ち倍増しております。

少年時代を当時の浦和市の外れで棲息していた私達は当時、我が国の少年達が遊ぶと言えば何が何でも野球であった時代にもかかわらず、この地のみでの流行であったサッカーをしておりました。私が生まれる少し前に県立浦和高校が未だに破られていない連勝記録を作り、その後も高校サッカーでは埼玉でベスト8、いや、もっと凄い表現をすれば浦和市で1位なら他県に行けば優勝できる勢いであった時代が長く続きました。

人口が増加したのは埼玉県民が子沢山なのではなく、流入人口が多かったというだけのことでしょう。それにより、元々存在していたはずのコミュニティ意識が埼玉県民から失われていき、子供達がサッカーに興じていた広場に集合住宅が林立し、となりに誰が住んでいるかわからない状態がどんどん増えています。世界各地に見るこのような流入人口による人口増を為した都市や地域に共通して言えるのは、土着意識が薄くなっていくと言うことでしょう。

同じ埼玉県でも、地域特性というものが存在していて、今やさいたま市と言われていても元々は4つの市域が合併したもの、そしてその前は昭和30年頃、更に細かく分かれていたコミュニティが存在していたはずです。それぞれの村は沼地に囲まれた台地にあり、それぞれの文化を持っていたのに、その沼地を埋め立て集合住宅が建ち、道ができ、その境がわからなくなりました。私の故郷、旧北足立郡土合村はその名を小学校中学校の名にのみ残すだけとなり、その中でも大字西堀字上の宮の私達と隣の大字南元宿の子供達が沼をはさんで石合戦をしていたのはたかだか40年前のことなのに、そんなものは既に消え去ってしまいました。人はそれを単なる懐古主義としてしかとらえることができないものなのでしょう。