W杯に見たスポーツを国威発揚の道具にする風潮の復活

ワールドカップなる世界の最高峰でサッカーを行なう大会とそれに付随したバカのお祭りが終りました。私はさほど興味を持っているわけでは有りませんでしたが、それなりにサッカーというスポーツをテレビで観戦し楽しみ、街中や近所のお祭りバカに迷惑を被っていた一時期が終了してしまったという感じで多少の寂しさを感じております。

まあ、1990年頃の大会が我が国でどの程度騒がれていたかを考えるとそのお祭りというイメージはここへきて急速に大きくなり、また、経済波及効果もあります。更には以前述べたとおり、知らぬ間に愛国心を身に付ける機会となったわけで、そういった意味合いではW杯が我が国に対してもたらしたものは収支プラスになっているであろうと考えられます。

然し、注目すべきは19世紀頃から強くなったであろうスポーツを国威発揚の道具に使う風潮が東京五輪以降、多少なりとも時代遅れとなり、陳腐化していたのに、何故か妙にその風潮が復活しているように見えてなりません。「つまり愛国心教育にプラスになったということだろう」と簡単に考えて良いものかどうかが疑問です。これは我が国のみならず、他国でも負けて帰ってきた選手達に投石する者がいたとか「国家の恥さらし」といった表現をしているとかから感じられることですが、スポーツという場を借りての代理戦争よろしく不必要なまでに愛国心を煽っているように見えてなりません。

五輪における「参加することに意義がある」といった考え方を捨て去り、昨今は全地球レベルで「勝つためにはなんでもする」という状態になりつつあります。当然、綺麗事だけでは物事は成り立ちませんが、やはりスポーツというものはそこに残る「爽やかさ」があって欲しいもので、何も代理戦争の果てに負けた人間を処刑しようと言うところまでの騒ぎはして欲しくはありません。確かに champion という単語の語源は主君の代わりに闘う戦士に与えられた賞賛であるという説もありますが、私がスポーツに求めたいのはラグビーで使われる "No side" というコンセプトで、試合が終ったら結果如何に関わらず全ての選手の健闘を称えることであってほしいということであります。