皆が言ってる

コンセンサスとは大変美しい言葉で、昭和末期にもてはやされていました。未だにその風潮を引きずっているようで「国民の総意を得て」などという言葉が議員先生やメディアのご立派な評論家の方々が好んで使っているようです。ただ、解釈としてのコンセンサスは事実上、「総意」ではなく、「多数」である様子でして、即ち51:49でもコンセンサスであると判断されるようです。

そのような漠然と見下ろしたようなところではなく、日々の会話でも同じような表現が良く聞かれます。私(ここでは私として表現しますが、誰か特定の個人であれば多く該当するでしょう)の何らかの行為に反対する人がいたとして、その人は大抵、「オマエの意見には『皆が』反対だと言っている」と言いたがります。なるほど、皆が反対であればそれはやってはいけない行為なのだろうと判断し、その反対方向の意見を唱えると今度は他所で同じことを言われます。つまり、本当は「皆が言っていた」ことではなかったと言うことです。

今のはあくまでもヘソマガリとしての表現でしたが、結局、そう言うときに私はその反論者に対して「皆とは具体的にどなたのことでしょうか?」と問うて見るようにしております。多くの場合、「だから、『皆』だよ」などという答えが返ってきますし、特定個人の名前が挙がるとしたら、大抵私に対して影響力のある人物を担ぎ出してきます。笑えるのは、実はその何らかの意見を未だにどこでも披露していなかったとしてもそういう答えは共通しているようなところがあります。

つまり、「皆が言ってる」という表現の根底は何かと言うと、相手と反対の意見を述べる上で仮想的な味方、それもマジョリティとしてのものがいるという虚勢を張るための道具に過ぎないということなのでしょう。「皆とは具体的に誰?」という問いには大抵答えに窮するようですし、苦し紛れに誰かの名前を挙げることで急場凌ぎをしているように見え、且つそれが楽しいのは私のひねくれ度合いが高いからであるとしても、「皆が言ってる」と誰かがいった場合は、それはその人ひとりの意見でしかないと考えるのが私の勝手な理解方法であります。