異文化に対する不快感

異文化の遭遇というのは時として不快感を伴います。それは一過性のものである場合が多く、大抵忘れてしまうものですが、インパクトが強いと記憶に残り、思い出すたびに不愉快になってしまうものもあります。

多くの人が異文化という単語を使うとすぐに外国を思い浮かべますが、実は関東と関西でも習慣の違いは存在していますし、同じ関東でも例えば横浜と熊谷では大きな違いがあり、もっと細分化してみれば実は隣の家と我が家でも違う文化が存在しています。そして私達はそういう異文化が存在していること自体の認識が無いので、自分の世界だけで物事を判断し、受け入れられないものを異文化としてではなく非常識として認識します。

私が大きなショックを覚えたのは70年代の米国留学時、あちらの方々はハンカチをつかって洟をかむ行為を当り前に行なっていたことです。1年間生活してきた中でついに最後まで真似できずに帰ってきました。それから30年が経過した今でも違和感、不快感を覚えてしまう行為です。ただ、それはあくまでも私の勝手な認識において覚える感情ですからこれは我慢すべきところであるという意識も働き、あくまで平静を装うことはできています。

それにしても、如何に世間には異文化が存在していることか・・・私は留学生のホストファミリーに応募してくださった方々によく引き合いに出すのですが、「洋式便所の蓋を空けたまま(使用した状態のまま)にしておくか閉じるか?という疑問からスタートしていただきたい」ということで、それは個々の人間が育った環境によってそれぞれ違うのであるということです。そして、現代の日本人は何故か「我慢」「妥協」などの言葉を忘れてしまったがために、そういう小さな異文化を受け入れられず、他人とのコミュニケーションが下手になっていっている・・・と言うとまた「問題の挿げ替え」というご意見を頂戴しそうですが、私自身が自分に言い聞かせている「我慢のための言い訳」は「自分以外皆異文化の人であり、できる限り受け入れる」ということであります。あくまでも「できる限り」ですが。