感動するための要素

個性という名のもとに没個性を養う「ゆとり教育」とやらが頓挫し、新たに競争社会を推奨するわけでもなく、言わば「元通り」の世の中になりましたが、人は一度味わった微温湯からはなかなか出られないようで、没個性への歩みはその速度を緩めたわけではなさそうです。こと「感動」という部分において、メディアを中心に個人の感性による物ではなく、強要されるものが日々増殖している感があります。

学生時代、「芸人大会」というものがあり、3年生のとき、漫談で準優勝しました。そのとき使ったのは、「青年の主張で優勝するために不可欠な要素」というタイトルです。人を感動させるのに必要な要素が30年前には既に今と同じ状況下にあり、特に泣かせる材料は画一化しているという皮肉で作ったものですが、抜粋すると、「生い立ちは農家の母子家庭、父親は事故で無くしていると良い。家庭は貧しく自分は大勢いる兄弟の第一子であること、母が無理をして高校に入学させてくれたのに一度は不良の道へ進み、学校へ行かず等の問題を起こす。母親が入院する、親友が不慮の死を遂げる等の更なる不幸を経て心を入れ替え、一家の大黒柱となりました。」という内容が理想的と述べました。

当然、多くの批判も受けましたが、あくまでも茶化しただけの話で、本当にそういう環境にあった人には申し訳ありませんが、人を感動させるには「度重なる不幸を乗り越えて」とうい要素が必要不可欠となります。世の中のほとんどの人はそこそこ恵まれた環境の中でそこそこ普通の人生を送ってきていて、富める者に対してはそこそこのやっかみを持ち不幸なものに対しては憐れみをもって接するわけで、私自身もその範疇の人間です。きっと、自分の周りに無かった「非日常」の中で憐憫の情を持てるものには感動しやすいように教育されてきているのでしょう。だから人を感動させるためには相手よりも劣る環境を提示し、それを乗り越えたと表現すれば良いという簡単な図式が存在しているのです。

ただ・・・大富豪の家庭に生まれ性格も良く学業も運動も抜群で社会に貢献し更に事業を成功させていったという人の存在を私は知りませんし、結局そうであったとしても不要なやっかみが介在して「どうせオレには関係のない世界だ」と思ってしまうでしょうから、それでは感動できないのでしょう。つまりは、恵まれた環境からより大きな成功をおさめた人の方が実は不幸なのではないか・・・と不思議なパラドクスを感じてしまいます。