コラボレーションという誤魔化し

先日、ふとテレビをつけるとボクシング選手のような風采の男がリングの上で歌を歌っているシーンに出くわしました。今時の歌手はここまで演出にこだわるのかと思っていると、実はこれは本当にボクシングの選手で、たった今試合を終え、ファンサービスとやらで歌っていたのだそうです。格闘技という意味では同じ柔道をやってきた人間として、不思議に思えてなりませんでした。

試合とは本来「死合い」の変型語であり即ち戦場での「殺し合い」を擬似的に行なうものであるという都市伝説のような俗説があります。試合とは死力を尽くして行ない、試合終了時に余力が残っているなどという状態は正しい試合ではなく、単なるショーに過ぎないと思ってしまったのは私だけなのでしょうか。イベントのプログラムとしてそこで歌を歌うことになっていたというのは、元々「簡単に勝つに決まっている相手」を手配していなければ不可能でしょう。そんな仕組まれたプログラムに興じてしまう観客も観客なら、座興に乗るために対戦を請けた相手の選手も選手です。どう見ても「プロ」の行為には見えません−−が尤もそれなりのファイトマネーをもらって行なっているのでしょうから、立派な「プロの芸人」であることは認められます。

元々、「コーヒーはブラックで」「漬物に醤油はかけない」「炊き込み御飯は邪道」等々、なんでも「生のまま」が好きな性格ですので、どのようなものでも「混ぜ物」に関しては不快に思うのかもしれませんが、世の中なんでもかんでもコラボレーションとかいう横文字で誤魔化し世間を騙しているようなイベントが多すぎるような気がします。炊き込み御飯は邪道と言えど、それなりに融合したものであれば問題はありません。ところが、今時のイベントはご飯にイチゴとチョコレートを炊き込んだようなものを喰わされているような違和感を覚えるものが多くあり、前述の「ボクシングと歌」などというのもその典型です。そもそも本当にボクシングが好きで見ている人なら選手が歌うなど「どうでも良い」ことではないでしょうか。

どんなことでも何らかの関連付けができているから成り立つので、そこで意表を突くような行動に出るのは単に目立つからです。ちょっとやそっとのことでは驚かなくなってしまった民衆の眼をこちらに向けるために興行を考える人々は「有り得ない組み合わせ」をどんどん編み出し、気がつけばそれが「正統派」となってしまうのかと思うと悲しいものです。結果融合できないコラボレーションは単なる無茶或いは破壊行為でしか無く、それを美化するのはあってはいけないことです。