「死ね」と言うなら

携帯電話とインターネットはこの10年間で爆発的に普及したものでしょう。1990年代の初めに独立し、データベースとその通信に関わるプログラムの仕事をしていた頃、中小零細企業では会社に一台とか二台のコンピュータが設置されており、大企業でも「一課に一台」のようなイメージでしたし、そういった客先を廻る営業をしていて、鞄の中の弁当箱のような大きさの携帯電話を人々はなにやらステータスのように見ておりました。90年代後半となるとインターネットの普及率もあがり、また、携帯電話というものが徐々に子供でも持っているものと化していき、2000年を過ぎてから待ち行く人が皆電話で話しながら歩いており、誰もがインターネットを「必要とする」時代がきたと思います。

今時の小学生は学校の宿題で先生に「インターネットで調べて来い」などと言われることがあるらしく、学校というものは方法論を教えず短絡的且つ安易な手段を教えてしまうのかと嘆かわしい次第です。そのせいか、今年採用した新卒の社員などたかが簡単な英単語を辞書を引かずに私に「これ、どういう意味ですか?」なんぞと平気で聞いてきます。このように何でも安易に考えるせいでしょうか、言葉遣いも安易に「忌み言葉」を使用しているようです。

今、ネット上の掲示板やメールアカウントはどの程度の数があるのか想像もつきません。私自身、仲間関係、仕事関係で毎日10箇所程度の掲示板をチェックし、また、メールアカウントも10件ほど持っており、一日に受信するメールは約500件(ただし、そのうちの450件は全くのゴミですが)程度となります。仕事関係のアカウントにはほぼ毎日「死ね」というメールが届きます。また、このコラムのご批判のメールも時々頂戴し、しばらく「死ね」というメールをたくさん頂戴しました。

多分、私は人に対して「死ね」と言ったことは無いであろうと思います。体育会ですから「死ぬ気でやれ」などというのはあたりまえに使っておりましたがあくまでも人に対してものを言う場合、自分ができること意外は言うべきでないと親に育てられたせいでしょう。(まあ、妻に対して「子供を産め」と言ったのはご愛嬌とさせていただきますが) つまり、私の理論では−あくまでも私の理論でしょうから人に強要はいたしませんが−「死ね」と仰る方はご自分も死んでいただきたいと考えます。そして、「お前が死んだらそれから俺が死ぬべきかどうか考えてやる」とお答えしましょう。まあ、そういう話の意味がわからない方が「死ね」という言葉を安易に遣うのでしょうから本日の文面は全く意味の無いものでしかありませんが、どんなに「死ね」と言われても私は寿命を全うするまで死にません。