疑惑の判定

ミレニアムオリンピックであったシドニーでの五輪大会、柔道の篠原選手が決勝戦でフランスのドイエ選手に敗れ銀メダルを獲得いたしました。当時、我が国のメディアは「疑惑の判定だ」「審判員のミスだ」と騒ぎ立て、中にはその時の主審、クレイグ・モナハン氏(であったと思う)に国際郵便で剃刀を送りつけた国家の威信に傷をつけるほどの馬鹿者までおりましたが、今では忘れ去られたお話となっております。

筆者は五輪の審判員を務める資格はありませんが、一応「国際C級審判員」の資格を有しております。2000年当時、インターネット上の柔道関連の掲示板に「ビデオで見る限り篠原の技の有効性はほとんど無く、主審の下したドイエに有効は妥当」と書き込んだところ、メールアドレスも開示していたため、日本中の馬鹿共から攻撃メールを喰らいました。「私は柔道のルールはわかりませんがあの試合は誰が見ても篠原選手の一本勝ちです。」といった内容が殆ど・・・思えばあの頃から既に我が国にはそういう馬鹿者が多かったのでしょう。

まあ、その話を蒸し返したいわけでは無いのですが、多くの競技において、判定というものは結局人間の主観に負うところが強く、柔道においてもそれは当然のことです。市民大会や昇級・昇段審査会の審判員をここ十数年やっておりますが、本音を言えば私自身の心の傷となる判定は幾度かくだしております。ここでド素人の馬鹿な方は「それはオマエが未熟だからだ」と鬼の首でもとった気になられるでしょうが、審判員は「人間」なんです。その為に審判員は複数(大抵3名)おり、結果としての誤審を防いでいるのです。自信の持てない判定の時は、他の審判員に委ねる部分も当然存在しているわけです。

ただ、判定を下す必要性のある競技の中、特に採点競技に関しては私も「ド素人」として納得のいかないものが多いかな?と感じます。特に冬のスポーツでは、フィギュアスケートなどその典型で、何故に見事なまでに転倒し尻餅をつき壁に手をかけて立ち上がり競技を継続した人間がメダルを取れるのか・・・そして必ずそういう選手は有名選手であります。五輪のスローガンは「より高く、より速く、より強く」であると聞いておりますが、20世紀の晩年頃から「より美しく」なんぞという言葉を加えている人がいるようで、更に最近では「より巧く」とでも加えたいほど、採点に対する「傾向と対策」が作られていっているようで、なんとも面白くありません。やはり競技は何でも「勝つために正々堂々と」でなくてはならないと思います。