素晴らしき商業芸術家達

子供の頃、芸術というものにはとんと縁が無かった記憶があります。父親は日教組で体育会の高校教師であり、週末も家にいたことがなく、母親は地方公務員の事務職で、当時は仕事を持ち帰り、休日もソロバンを弾いている家庭に育ち、クラスの仲間が音楽教室や絵画教室に通っているのを見ても羨ましいとすら感じませんでした。しかし、高校時代に先輩に連れられて行ったクラシックコンサート以来、妙に興味を持ったが為に常にホンモノを求めるように変わっていった自分には時々驚かされております。

芸術というものは知れば知るほど奥が深く、様々なジャンルに分かれておりますが、特に前衛的なものの究極はその芸術家以外に理解できる者がいてはならないという矛盾したものまで存在しております。「私の芸術が理解できる人はそうはいないでしょう」などと、よくもまあ、恥ずかしくも無くそんなことが言えるもんだと感銘を受ける人も大勢いますが、それはそれでひとつの道を極めた人、或いはその世界の第一人者であれば良いことです。

残念なことに、最高の芸術家であっても生活はせねばならないので、その芸術に対価をつけ、俗物的なオカネに替えざるを得ません。音楽に関しては演奏会を開いたりメディアに出演したりCDなどを販売したりという行動ですが、美術系の、特にデザイナーと呼ばれる人々は何らかの商品にその芸術を変換し(というより、「業者」という下賎の者に変換させ)オカネを得ている場合がほとんどでしょう。そういう中で大きな勘違いをしてしまう不幸な例が世間で話題になる著作権問題です。

特にインターネットが発達した今日、種種雑多なキャラクターが出現し、それぞれにファンを得て商品化されていきますが、多くのデザイナーさん達が商品が爆発的に売れたのは自分の力だけであるという勘違いをしております。そして、自らの「芸術」を下賎なものに換えてやったのにそれに対する礼を失していると考えているようです。デザインにせよ音楽にせよ後援者は簡単にはつくはずは無く、また、良いものであってもプロモーションを間違えば現代のマーケットでは受け入れられないはずですが、それすらも理解できず、自らの「芸術」を下賎の民に与えてやっていると思ってしまい、また、一部の下賎の民がそんなものをもてはやすからちょっとばかり売れて・・・という碌でもない螺旋構造に陥っているのですが・・・大切なのは私達一般人がホンモノを見極める眼と耳を研ぎ澄まし、「そこそこ」のものに満足しないようになることです。本当の芸術は何世紀の時を経ても色褪せることなく芸術でいるはずですから。