無知の恥

無知の知」という言葉を使う方がおられます。自らが無知であることを知っていることが大事だそうで、確かに仰る通り、所詮、我々は知らないことのほうが多いわけです。そして知らないということを知っているからこそ尊いということで、ソクラテスの言葉であったというお話です。

しかし、「無知の知」声高に言う人は何故か世間的にはレベルの高い人が多く、逆に相手が知らないだろうとわかりつつ、確信犯的に「ご存知ありませんか?」などとお聞きすると「そんなこと知ってますよ。常識じゃないですか。」などというお言葉が返ってくるタイプの人ばかりみかけます。有識者であるとか知恵者であるとか他人に言われると、人間は謙遜しつつ「いや、私なんぞはまだまだ・・・」という言葉を発しつつ、心の中で「そうそう。オマエなんかよりよほど知識を持っているんだぞ。」などと呟いているのでしょうから結局、下手に有識者扱いされてしまうと人前で「存じません。」という言葉が使えなくなっていくのでしょう。

以前にも書きましたが、そもそも「知らないことは恥ずかしいことではなく、知ろうとしないことが恥ずかしい。」と私は考えます。知らなかったことは素直に知らなかったことを認め、教えを乞うても決して恥ずかしい事ではなく、むしろ知っていたフリの方が恥ずかしいと思います。「聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥」とは良く言ったもので、過去に聞かなかったが為にその後苦労をしたことは数限りなく記憶しております。

そこで、表題のように漢字で遊んでしまい、「無知の恥」と言い換えてしまえば、短絡的ではありますが自分なりに前向きな考え方ができると自画自賛しております。何らかの事象を自らが知らなかったことを知ることがもともと必要とされている考え方であり、それを一歩進めて、知らなかったことを知り、そして恥じることにより以後忘れまいと考える原動力になりそうな気がします。「無知の知」で終ってしまうとつまりは「知らなかったのなら仕方が無い」で終ってしまいそうな怖さがあります。どういう考え方がレベルが高いとか低いとかの問題ではなく、あくまでも、自分なりに一歩進んだつもりで「知らなかった」>「恥ずかしかった」>「知ったことは僥倖である」>「ここで知ったことを大切にしよう」という流れを持って考えようと・・・あくまでも私なりのとらえ方です。以後、「無知の恥」と使ってみて、誰かクレームをつけてくれたら・・・その人はきっとかなりな識者であろうか?と思えるかと、ほくそえんでおります。