垣根の高さ

垣根という言葉自体が最近ではあまり聞かれないとは感じますが、昔は多くの家が垣根で囲まれていました。高さはせいぜい腰から胸程度で、庭で洗濯物を干す主婦や植木に水をやるお爺さんと眼があうと知らない仲でも目礼を交わし、知り合いであれば立ち話に花が咲くなどの光景がそこここに見られたと記憶しております。

時代が流れ、垣根は板塀に変わり、高さが増して人の身長より高くなりました。そして更にコンクリートの無機的な塀が増えていき、あわせて一戸建てが減り集合住宅が増えてきました。垣根の時代には家の前を通り過ぎるランドセルに自然と「気をつけて帰るんだぞ」などと声をかけていたお爺さんの姿は見えなくなり、道路そのものも昔の砂利道からアスファルトへとより殺伐とした無機物へと変化していきました。

このような社会の変化に伴い、実は組織というものが垣根をコンクリートの塀に変え、その塀の上には鉄条網が張り巡らされ、入口が狭く屈強な警備員が立っているような状態を作ってきているような気がします。仲間意識が強いということは決して悪いことではないのですが、妙に排他的になり、部外者と言うものに対する警戒感が強くなっています。そして、日本人の美徳である長幼の序という考え方を曲解したかのように、新参者は末席に座らされ、組織に何年所属しているからとか昔からやってきたからとかいう理由だけで組織内の評価が為されています。これをひとつの形として社会機構を打破しようとしたベンチャー企業などもありますし、その中にはそれなりの成功を収めた方々もおられますが、実は短くても「苦節十余年」といったところだけがその範疇であり、昨日今日始めたばかりの若僧にはその権利は無いようです。

どのような組織にも垣根があるのは当然です。この場合の組織とは家庭、コミュニティ、学校や会社、業界、そして国家等、全ての人の集まりというとらえ方で考えていますが、その組織が、大小に関わらず「外から見たらどうなる」を考えず、より排他的になっているような気がしてなりません。このまま「殻に閉じこもる」行為を続けることは組織ぐるみの引きこもりであろうと思います。昔のように目の高さより低い垣根に替え、「外の人」からも自分の組織が見えることで、「見られて美しくなる」という材料になり、また、防犯の意味でも実は安全になるという考え方をなんとか取り入れていけないか・・・と自らの会社、家庭、その他の所属する組織に対して考えていきたいものです。