貢献と名誉が比例しないことが多い

世の中、無償の愛だの社会貢献だのボランティアだのNPOだの・・・間違いなく美しいはずの行為がそこここで行なわれております。然し、その多くは実は裏側に名誉とお金が欲しい人が蠢いていて、また、世の中の人はそういうことに対する警戒心があり、よって活動に参加しない理由にしている場合がこれまた多く見受けられます。

社会に貢献した人の本当に極一部の方には何やら表彰されたりする機会があります。国民栄誉賞などというのがその中では相当に大きなものですが、個人の名を冠した賞も多々存在しております。身近な例では「社長表彰」等もあります。この中でいわゆる「履歴書に書いても良さそうなもの」となると限られてくるでしょうが、何しろ受賞する人は皆何かに貢献した人であることは紛れも無い事実でしょう。

名誉をお金で買うというと、何やら汚いイメージがありますが、環境保護団体に一億円の寄付をした人は、駅前のゴミを拾った人より貢献度が高いことは事実。私もボランティア活動には参加いたしておりますが、無償提供した労働力を賃金に換算したところでせいぜい年間数十万円でしょう。これは世の中の多くの人に言えることで、仮に自ら持てる全ての時間を提供したとしても、その人の期待できるであろう年間所得分の寄付をしたに過ぎず、では一億円の寄付をするということはそれにより、団体の活動費、そして前向きな使途に充てられていればその貢献度たるや大変なものです。

ところが、世の中は妙に「平等」という嘘に固められており、何らかの活動の年会費が一口2000円とすれば、その一口のみを支払い、時間、労働その他の提供も一切無い「庶民」が「私は○○に協力しています。」などといいつづけます。2000円の年会費を30年支払いつづけて総額六万円の人はそれだけで「30年間、○○の活動に貢献してきた。」などと平気で言います。それは確かに「何もしなかった人」よりは貢献しています。そして、そういう小さな貢献を多くの人がすることも大事です。ただ、それは単に「免罪符の購入」という行為でしかなく、決して「貢献」と胸を張れる話ではありません。零細企業の経営者ですので、何でも金銭の損得に換算してしまうのが難点かもしれませんが、実はまとまった金額を寄付した人の方が小さな協力を自慢している小市民より貢献度が高いのであるということに気がつくべきであると考えます。しかし、そう発言するだけでなく、本当に大きな金額で貢献できるよう、自分の社業に日々追われ、小さな協力しかできない自分を歯痒くも感じますが・・・