宗教観の相違

日本人の大半は「あなたの宗教は?」と問われる機会が無いと思われます。仮に問われても自らの宗教をはっきりと言い切れる人はせいぜい2割程度でしょう。何しろ、生後30日にしてお宮参りをし、結婚するときは教会で式を挙げ、没しては概ねご先祖様の関わりがあるお寺へ入るという大きな動きの中、正月は神社に初詣をし、クリスチャンのお祭りはどんどん取り入れていくという年中行事を過ごしているファジーな宗教観の持ち主がほとんどでしょうから。

では私はどうなのだろうと考えますと、実は正月に初詣に行き、知人の葬儀は仏式であり、クリスマスには家族にケーキを買っております。社会催事としての宗教行事にはそれなりに多岐に亙って参加しているわけで、さほど立派なことが言えるわけではありません。然し、何故か我が国の人々は、はっきりとした宗教観を持った人に対し、その方が外国人であればお咎め無しであるのに、日本人であるとむしろ奇異な目で見る傾向にあります。

学生時代に宗教学というものを何単位か取得したのですが、日本人の宗教観というのは神道をベースにした「八百万の神」に基づくもので、つまりはどのようなものも取り入れるという寛容さを持っています。信仰が深い人ほど排他的になりかねないところがある・・・という考え方すら自然と身に付けているようです。そしてその寛容が戦後、無関心へと変化し、特定の宗教を支持してはいけないという法的な考え方を殊更に大事にしているようです。寛容であったはずが、多くの人が「特定の宗教を信じてはいけない教」の信者となってしまったかのようなところが見受けられます。

我が身を振り返ると、その宗教観を持ちつつも、たまたま系図の上での遠い本家が浄土真宗の坊主であったが故、少しばかりの修行をし、一応読経ができる程度にはなった上、米国に留学中、教会なんぞというものに通い、一応はプロテスタントの牧師の説教を毎週聞いてきて、更にその後カソリック系の大学、仏教系の大学を渡り歩きつつ、柔道という神道にかかわりの深いことをやっているという妙な人生を歩んでおります。ただ、決して排他的、否定的な気持ちをどの宗教に対しても持たず、個々の宗教を重んじて見ることだけはできます。ですから「信じてはいけない教」ではなく「全てを信じて良い教」の方でして・・・これこそが本来の我が国の八百万の神々を信じてきたご先祖様達の考え方に一番近いだろうと勝手に信じております。きっとその八百万の神々は全ての宗教における「神」の存在をカバーした全知全能のものでしょうから。何の区別もつけずに、この世の全ての宗教に栄光あれ!(信者を不幸にするカルト教団を除く・・・)