教員の一人称

小さな子供を相手に話すとき、人は往々にして一人称を三人称に替えて表現します。私もそんなひとりで、小学校低学年くらいのお子さんには「おじさんはね・・・」といった表現方法を使用しております。子供にとっては全て自分を軸に考えなくては混乱するであろうという我々人類が本能的に使用する親切心の延長線上にそのような行為があるのではないかと思われます。

世の中に数多の職業があり、様々なコミュニケーションの上で、大人は名前に敬称をつけ、その尊敬の意思を表します。小学校の国語で教わった通り、日本語の美しさはこの尊敬語と謙譲語の使い分けを上手にすることでありますが、なんと、謙譲の美徳を忘れている業種が私の知り得る限り、ひとつだけあります。それは教員という職業の方々で、彼等の一人称は「先生」であることが多いということです。

確かに小学校の教員が一人称として「先生」を使用するのは冒頭述べた通り、相手の混乱を回避するひとつの手段として有効でしょうが、何故か最近では、中学校、高等学校の教員も一人称に「先生」を使っていることが多いようです。しかも、その一人称は相手が一旦「教え子」であったものであれば終生有効なようで、先日、とある席で40歳を過ぎたと思しき人に「おお、○○、相変わらず元気だな!先生も元気でやってるぞ!」などと語っている未だ50歳には満たないであろう人をお見かけしました。年齢的には概ね誤差の範疇であるお二方の会話として違和感を感じざるを得ません。

米国では、長幼の序という考え方が薄いためか、在学中は敬称としてMr.等をつけて呼んでいた先生を卒業後はファーストネームで呼んでいる場合が多いようです。これまた違和感がありますが、人間の立場というものは変化していくもので、自分より下の立場であった者がその実力、努力、そして運によってより高いものへとなっていくはず。このようにいつまでも一人称が「先生」でいたいと考えている教員の方々は本当にお気の毒な人種且つ情けない人種なのだろうなと私は考えてしまいます。何しろ、自ら「私は貴方より上の立場の人間です。」と常に確認作業をしなければならないくらい自信が無いのか、或いはたまたま教え子であった人間が自分より上の立場になってしまったことを認めたくないとか敢えて虚勢を張りたいという態度なのか、いずれにしても私の目にはあまり格好良くは映りません。