基本はできているか?

中学校に入学した約40年前、妙に良家の子女が多い学校であったためか、クラスの中で、小学校時代に英語を学んだことが無い生徒は2〜3人でした。当時としては珍しいことです。私の父は、私が小学生の頃、塾通いや家庭教師をどうこうということはせず、漢字の読み書きと四則演算だけ勉強せよと常に言っていました。「読み書き算盤」に関しては長けていた私でしたが、社会科や理科の系統はあまり理解しないまま中学生になった記憶があります。

時は流れて自分の子供が小学校、中学校へ通っている姿を見ると、当時と比較しても大変バリエーションに富んだ授業が行なわれている様子です。小学校から英語教育が為されたり、また社会体験であるとかで、企業訪問をし、労働をしてきたり、宿題で「インターネットで調べてくるように」などと言われてみたり・・・国語や算数の授業時間は激減しているようです。ただでさえ語彙力の無い世代がどんどん大人になってきていて、日本語が通じなくなっている昨今の我が国で国語教育の時間を減らしているのですから応用教科の授業をいくら行なったところで生徒の理解力がついていかないのではないかと危惧しているのは私だけでしょうか。

そういう教育課程が長く続いた結果でしょうか、現在、社会人である人達でも基本がわからないまま高度なことをやろうとする人が増えています。逆上がりが出来ないのに大車輪やらムーンサルトやら超難易度の技をやろうとしているようなものです。そして、それが一見出来ているように見えるあたりも恐ろしいことです。それもこれも所謂IT革命とやらの恩恵で、実は難しいことが簡単に具現化するようになった功罪でしょうか。

基本をやらずして応用ばかりを求める、短絡的な手法がこのまま蔓延していくといざという時に何も出来ない人間で世の中が溢れかえるのではないでしょうか。言葉のアヤを遊びの材料にしている仲間内で「説得力」に対して「納得力」という言葉を良く使います。つまり、説得力のある話でも受けての納得力が無ければ伝わらないということです。今の教育課程では、正しい日本語を覚える前に外国語やら化学式やらがどんどん入ってきてしまい、使える語彙の少ない人間を量産してしまう怖さが教育行政の関係者にはわかっていないようです。義務教育の期間中は、多少の応用編が加わったとしても、基本は「読み書き算盤」だけを教えていくことが大切で、後に応用力が身につけば、自分に適した専門分野を選べればそれでよいと思うのですが・・・英語が喋れなくても一流社会で暮らしている人はいくらでもいるんですから。