知合いと友達の違い

人脈という言葉が良く使われますが、これは人が生きていく上で大きな財産であると思います。特に私のような零細企業の経営者には人脈こそが商売の糧であり、持てる人脈からのご紹介無くしては経営が成り立ちません。零細企業の経営者はそういう人脈を得るために多くの会合に出席する努力を惜しみませんし、実際、その努力を怠っていて成功した経営者は少なくとも私の知人では皆無に等しいと思います。

私の場合は5名程度の小さな会社ですのでまだ良いほうらしいですが、これが20名以上の社員を抱えるようになると経営者というものは本当に孤独になるようです。そこで更に様々な会合に出席して、同じ悩みを抱える経営者と仲良くなり傷を舐めあう行為に及びます。まだ良いほうと言いつつ、私もそういう目的もあって多くの会合に出席しております。この延長線上にメディアが笑いの種にする社交界なるものが存在するのかも知れません。

私を含め、経営者というものは知人の数は多いものです。それが人脈というものですから、当然といえば当然なのですが、さて、この知人というのは「知合い」なのか「友人」なのかというところで疑問を感じてしまうときが多いと思います。こちらが友人と思っていても先方がただの知合いだと思っている場合もありますし、その逆も存在しています。多くの場合、頼みごとをしたいときには「友人」として接し、逆の場合は「そこまで付き合いが深くないから・・・」などと逃げるという図式を見かけますが、そういう意味で友達というのは大切だと感じております。

昔話にマイダス王という方、触るもの皆、金に変えてしまい、確かに裕福にはなれるが愛娘に至るまで物言わぬ金塊となってしまい涙に暮れるというのがありましたが、今、世の中で大金持ちになっている人たちはマイダス王に近い存在が多くおられます。歓楽街のお姉さん達と悪徳商人はあくまでもその人と付き合っているのではなく、その人の財布とだけ付き合っているわけでして、程度の差はあれど、友人のフリをして私の財布の中身だけと仲良くしていた人は大勢いますし、とある回収事故以降、その中身が少なくなってからは多くの人が離れていきました。ただ、それでも付き合っていただける本当の友人が何人もいることが私の幸せだと思います。実りある人生を過ごすにはある意味、窮してみて良かったのかと考えつつも、誰かの財布と付き合いたいなどと浅ましい考え方を持ってしまったりもするのが人間の欲望が為せる業でしょうか。まだまだ悟りを開けたとは言い切れないようです。