社会保障の矛盾

義母が脳梗塞で倒れ、半身不随となり、車椅子生活をするようになって3年が経ちます。思えば、身の回りに障害者が存在したことが無く、既に喜寿を迎えた両親もいわゆる矍鑠(こういう漢字を書くのか・・・)としておりますので、唯一身近な障害者が義母です。病院に担ぎ込まれたときは命も危ぶまれたのですが、暫く入院し、退院後もリハビリに努力した結果、家の中では杖だけでどうにか歩けるところまで快復しましたが、外出に車椅子は欠かせません。

身近に障害者がいることになったがゆえに学んだことは多々あります。今まで、言葉の上での福祉、社会保障等は理解しており、また、人に優しくあるべきであるという心も持ち合わせていたつもりでしたが、障害者の為にやらなくてはいけないことがこうも沢山存在しているのかという驚きと、世間というものはまだまだ障害者への心配りができていないものだと言う事が見えてきました。我々が日頃全く気にしない程度の段差が車椅子にとっては山脈のように高くそびえるものであり、なだらかな下り坂は時としてジェットコースターになりかねないものです。視覚障害者の方々に必要な点字ブロックが車椅子にとっては残酷な凹凸道を形成してしまうという不幸な事実も知りました。

さて、障害をお持ちの方というのはそれなりの社会保障というものにお世話になっておりますが、その矛盾点も否定できない場合があります。昔から愛国者団体と人権団体は本当に愛国者や人権擁護を訴える人達によって形成されているもののほかに、それを名乗り金儲けに繋げようとしている似非団体が多く存在しております。どういうのが似非団体かというと、この文章を読んだだけで声を荒げて全面否定する人が所属しているのが概ね似非団体の方であろうと思います。そういう似非が最近では社会保障の世界にも進出してきているようで、心臓疾病の障害者手帳を持っている方が夜の歓楽街の高級店で痛飲しているのを見たことがありますし、先日は、うつ病社会保障を受けているはずの方が超高級エステサロンへ通っているというお話を聞きました。

彼等は実は軽度の障害を持っていて、何らかの手段或いは運でその等級が高いものになっている人種らしいのです。決して障害者を差別する意思などありませんが、社会保障は歓楽街やエステサロンの為に供給されているわけではないことも真実ではないでしょうか。歓楽街に行く金も女房をエステに行かせる金も持ち合わせていない私がその金を少しとはいえ供給しているのかと思うと腹が立ちます。大切なのはそういう資金の「使い方」と「使われ方」です。