オトナとつきあう・コドモとつきあう

今時の若い人の考え方が分からないと言いつつ、未だに大人になれずにおります。とはいえ、それは誰にでも共通することであろうと思います。年寄りとか若いとかの表現は常に相対年齢で考えられるので、どのような集団においての表現かによって変わるわけでして、例えば今年喜寿を迎える私の父は旧制高校のほぼ最期の世代であり、その同窓会においてはいつまでたっても「若僧」だそうです。

私自身も、学校の同窓会関係で集まれば小僧扱い、地域の社長会でも若手と呼ばれますが、留学生団体の支部ボランティア活動ではほぼ長老であり、「立場が人を作る」と言うより、「立場により人が変わる」と言ったほうが正しいであろうと感じております。つまり、年長者の中に入っているとき、自分は「コドモがオトナとつきあっている」状態であり、若者の中にいるときは「オトナがコドモとつきあっている」となります。

長幼の序とは良く言ったもので、オトナは確かにいろいろな経験を有し、その経験からくるアドバイスができる場合があります。その反面、その経験があまりに古いものであったり、また、実は経験したことではない事象には実はアドバイスができないことも多々あります。それにもかかわらず、オトナというものは常に物知り顔で偉そうにアドバイスをしようとしてしまうものです。そういう事例が何度か繰り返されるために、コドモはオトナにアドバイスを求めなくなります。また、コドモはオトナには無い斬新なアイディアと時流にマッチした最新情報を持っています。そして、オトナは知らないことを恥と思うがゆえ、それらを不必要なものと捉え、コドモの話を聞きません。

そうやって世代間の断絶が発生し、長幼の序の功罪とでも申しましょうか、どちらかというとオトナの方が有利な立場にあるため、コドモは「オトナにはわからない」と言うようになるのでしょう。いつも私が自らに言い聞かせているのは自分がオトナの立場の時には「頭の柔らかい発想は聴くに値するものである」ということで、コドモの立場になると「年長者の経験則は時として役に立つものである」ということです。とはいえ、まだまだオトナになりきれていませんので、どちらも完璧に実践できているとは言い切れないのが歯痒いところです。