加害者の人権・被害者の人権

我が国はいつから痛ましい殺人事件が後を絶たない国家となってしまったのでしょう。殺人の動機にはいろいろなものがあり、その多くは怨恨であったはず。人を恨むあまりに殺してしまうのが良いとは間違っても言えませんが、百歩、いや、百万歩譲ってそこには理由があるわけです。平成時代になってから、特に21世紀になってから、そういう理由のある殺人が減少したとは言わずとも、比率において「理由無き殺人」が増加していることは否定できますまい。デジタル社会の弊害であるとか教育行政の問題であるとか、果ては政治家が悪いとかいう話は事実上自分の子供を教育できない親の責任であることに気がつかない評論家の皆様にお任せいたしますが、そういう世の中を憂う事に関しては私も同様です。

それにしても、殺人犯の若年化が目立つ昨今、未成年者が多く関与しているようです。当然、報道においては彼等は「少年A」等となり、世間に顔を晒す事も無く、成人よりも短い刑罰を受けるに留まる様子。止むに止まれず罪を犯した高齢者が世間に顔を晒されその生涯を獄中で終えるとしたら、未成年者が30歳程度で形式上の社会復帰をしてのうのう(そう簡単ではありますまいが)とその後の人生を過ごせるのと比較してあまりにも不公平なような気がしてなりません。

いずれにしても、事件が発生するとメディアはこぞって被害者とその周辺にスポットライトを当て、人に知られたくないであろう事までをブラウン管のつまみとして晒します。ワイドショーではあたかも被害者にも問題があったかのような報道まで平気で行ない、結果、被害者であるが故に住み慣れた街にも居辛くなり、転居していく例も後を絶ちません。ところが、世間もメディアも何故か加害者に対しては人権やら人道問題やらを尊重し、不必要とも思われるモザイクをかけたり実名報道を避けたりすることが多々見られます。

小学校の頃、教室の花瓶を割ってしまったら学級会で皆の前に晒し者となり、お詫びをするのが当然でありました。罪は償うべき、罰を受けるべきものであります。人間とはそれほど強いものではありませんし、自らを律することも苦手としているものなのですから、ましてや、日本人は恥を知る文化を持っている人種なのですから、悪事を働いたものは晒し者とし、その屈辱を二度と味わうことの無いように反省させれば良いのです。どうしてこう、世間というものは飴だけ与えて鞭を否定するのか・・・性善説にもほどがあると感じてしまう今日この頃です。