プロが少ない・・・

その昔、天下を取ることを夢見て多くの武将が名乗りをあげ闘いに挑んでおりました。その体制が不充分なまま、徳川幕府というものが200余年の統治を為し、その後、明治維新、そして第二次世界大戦という変遷を経て、ここ60年間、天下人と呼べる統治者がおらず、すなわち、民主主義という世の中が続いております。

高校時代、当時あった「倫理社会」という授業で、バリバリ日教組の先生から「差別」をテーマとした発表をせよと言われ、「至極優秀なる独裁者に統治された国家で、絶対的な差別社会が存在したとすればそれはそれで皆幸せかもしれない」なんぞと述べてしまった結果、赤点を喰らった悲しい記憶を持つ私ですが、世の中、皆機会は平等に与えられるべきであり、その中での競争原理の中でトップに立とうとするのが人間の性であろうという意見は曲げられないところです。

ところが、今の世の中、自由だの平等だのという修辞語を利用した人をダメにしようという力でも働いているのか・・・運動会でも成績を漠然とした表現でしか表さず、順位をつけないことが流行している様子です。つまり、私達の学生時代における「クラスで一番」とか「学年一位」とか、はたまた「全国模試で何位になった」とかそいういうモチベーションが今の学生にはあまり与えられていないようです。ということは・・・頑張ってもあまり評価されないことに陥り、結局「ナンバーワンにならなくても良い」などという発想が蔓延してしまうわけです。

そのような中、ある種の分野でトップに立とうなどと考えることは今や愚行であり、あれもこれも適度にこなすという人が成功を収める例が多いようです。私自身が「ジェネラリストの達人」を常々目指しているのでこれまたその流れに乗ろうと努力しているようで恥ずかしい次第ですが、そういう発想の中で、世の中の子供達は「一所懸命」という言葉を忘れ去り、「一生懸命」とかいう言葉が市民権を得てしまいました。

そう・・・何らかのことに打ち込んで、その世界でのトップに立とうという人・・・つまり、プロであろうという人がどんどんいなくなり、歌手がデザインした衣料品とか芸人が考えた料理とかそんなものが本来のプロのものよりもてはやされる時代が来てしまったわけです。世の中に俄評論家や似非評論家が溢れまくり、プロの意見を聞かなくなってしまった訳ですから、不況になるのも当然でしょう。心有る方には・・・私の意見など聴かなくて良いからプロの意見を聴いていただきたいものです。