クローン人間の宴

若い人達と話していて「キャラがかぶる」という言葉が気になりました。どうやら似たようなキャラクターが複数いる場合に、いずれかが必要無いからといった意味合いでそのフレーズを使っているようです。確かに、最近、テレビ・ラジオでは、特にお笑い芸人と歌手にはその手の人種が多く見られるような気がします。

その「キャラ」なるものを見ていくと、何らかの新しいキャラが出現し、それが成功を収めると類似品が多々出現しているようです。宣伝するようですが、6年前に「後続車に捧げるラプソディー」を発売したのはほかならぬ私の会社でありますが、一時的に人気が出た後、模造品、類似品があちこちで売られ、いつの間にやら「私のところが本家です」と言わんばかりの会社やアングラデザイナーまで出現するに至っております。まあ、そういうものが出てくるようになればそれはそれで一流の証であろうと考えれば良い事です。

例えば歌手・・・30年前にまさにアヴァンギャルドな雰囲気で反体制を標榜しているイメージであったサザンのように外人が歌っているような妙な発音や、やる気がなさそうに響くユーミンの歌い方・・・当時若者であった私は大いに共感したものです。ところが30年経過してみると、オリジナリティの無い新人の歌い手達がその発声法やコード進行を真似て、「なんとなく聞き覚えのある」といったほとんどモノマネでしかない曲を作り、どうやらそれをバックアップするシンジケートのような組織があり、それらを「斬新で」とか「若者の・・・」とか言いつつ人々を洗脳してしまい巧妙に商業ベースでの利益を貪っているようです。

昨今では「音大出」とか「音大在学中」というブランドを更にその上に被せて、本格派とかいうキャッチコピーの下、大々的に売り出している歌手が多々見られますが、その一部は確かに「それなりの」実力を感じるとはいえ、大多数はその「音大」の真価が問われそうな発声しかしていません。つまり、音大を卒業していようといまいと、なんとなくやる気の無さそうな、だら〜っとした発声をしないと現代のマーケットにそぐわない部分があるということで、折角音大で学んだこともその業界では生きてこないということでしょうか。結局、私達はキャラがかぶったものだけを見ているに過ぎず、画一化された評論家の賛辞に騙されて「本当に良いもの」とか「自分が好きなもの」とか、そういうものを見失うように仕向けられているのではないか危惧を抱いてしまうので・・・私の発想は世の中に受け入れられない理由がなんとなく見えてきました。