学校の先生は教育者か教員か

私には師と仰ぐ人物が大勢います。世間的に格好良いのは「人生の師はたったひとり」という姿ですが、それでは単にその師のクローンでしかないと考えており、自分自身を強く持っていると自負している私としては、大勢の師の集大成となるべく人生を送っているのだと勝手に決め付けております。

さて、その師の中に学校時代の先生が何人いるのであろうかと考えたとき、決して少なくは無いとはいえ、小学校から始まり私が授業を受けた先生の数からすると実は比率が低いのではないかと感じてしまいます。常々毒を吐いている「メディアの影響」でしょうか、「学校の先生なんて何も教えてくれない」といった風潮の始まった時代に義務教育期を過ごした私です。先生なんて役に立たないと今ではその一部がカルト教団と化したPTAと称する方々が声高に言える時代が来ていますが、確かにこれは一部の先生の側にも問題があり、教壇に立つ事をあくまでもシゴトとしてしか考えられない程度の低い公務員レベルの先生が増殖していることは否定できません。(公務員という存在の程度が低いという意味ではありません)

学校の先生は教育者であります。教育という熟語は「教えて育てる」と書きます。義務教育の間、そして、現在準義務教育とでも言えそうな高等学校まで、多くの事象を吸収し成長していく期間に次世代を育てるという心意気で接していなければつまりは「育たない」わけです。ところが授業だけやればよい、方法論だけを説けばよいといった血の通わぬ教育行政のなれの果てとして、淡々と与えられた時間の授業だけをこなし、数字だけで生徒を評価し、機械的にその「業務」を遂行している先生が増えたことにより、学校があたかもキャベツ畑と化し、自動製造ラインから出てくる規格化された人間が毎年世の中に出てくるようになりました。

個性を重んじるとか、少人数学級でどうこうとか、教育行政に携わる方々は机の上で立派な理論を述べておられますが、現場を知りません。ただ教えるだけの「教員」を大事にし、夕陽に向かって走れる、本気で生徒の為に泣いたり笑ったりできる「教育者」がテレビドラマの中だけにしかいなくなりつつある昨今、マニュアル世代なんぞと言われる冷血漢が与えられたプログラムだけで人生を歩み、死んでいくような世の中はもう目の前なのでしょうか。先生達に物申すとすれば・・・もっと熱くなりましょうよ・・・毎日同じメシ喰ってても毎日同じ番組見てても面白くないんですから、企業の発想を持って、小ロット多品種の卒業生を生産してください。