太り続ける言葉

言葉は時代とともに変化し続けるというのは私が(私に限らず、多くの人が)常々述べていますが、敢えて時代とともに太っていくという発想で接してみたいと思います。これを思いついたポイントは、テレビ番組などで「号泣」という表現は涙が一筋流れただけでされていたことです。

メディアに限らず、日常の会話でもこういう例は多々見かけます。ちょっとこれらの言葉が肥満化した例を羅列してみますと・・・

  • 「絶対に」「間違いなく」というのは概ね「多分」の意味で使われている
  • 「とても」という意味では、「超」〜「激」〜「爆」とどんどん凄いことになっていっている
  • 「懲らしめる」という意味で昔「叩くよ!」と叱られた記憶があったのだが、やがて「ぶっ飛ばす」となり、「半殺しにするよ」などというのが出てきて物騒な世の中になったと思ったら最近では「殺す」と表現するらしい。
  • 同様に「疲れた」という意味で「死にそうだ」と昔は大袈裟な表現として使用していたが昨今ではちょっと疲れただけであろう若者が「死んだ」などと言う。
  • 「今世紀最大の」「史上最高の」と毎回繰り返される新製品等(特に映画の宣伝)

等等・・・また、カタカナ用語を使用するが故、なにやら高級なものに聴こえてしまうものがありますが、その中に「それは無いだろう」とツッコミを入れたくなるようなものには;

  • 「カリスマ」と呼ばれるちょっとだけ優秀な人物(或いはたまたまその業界にいる人物)
  • スペシャリスト」という名の実務経験がゼロに等しい人物
  • 「アーチスト」という名の発声練習すらしていない歌謡曲を歌っている人物

こんな例ばかり羅列していてもきりが無いのですが、あまりに「平等」なんぞというものを押し付けちょっとでも差をつけてはいけないという風潮の中、あたかも倹約令が出た時代の「燻し銀」と同じような発想で、どこかで差別化したいがために言葉が進化したような気がしてならないのです。そして、正しい意味を知らずして表現が通じやすいもの、響きが心地よいものが市民権を得ていくのでしょう。既に世の中では「一生懸命」(())正しくは「一所懸命」という、本当にやったら早死にしそうな言葉が正しい言葉として使用されているのですから仕方ありますまい・・・