「交換留学」と「海外学習」

30年程前、財団法人エイ・エフ・エス日本協会(当時は文部省直轄団体だったはず)の交換留学生として1年間米国ミズーリ州に派遣されておりました。言わばその恩返しという意味を含め、現在、協会の埼玉支部で役員を仰せつかっております。当時「留学」というのはごく一部の変人か大金持ちの子弟にのみ縁があり、最近使われる「語学留学」というものではなく、既に派遣される国の言語の理解能力をそこそこ有し、国際交流、異文化体験を主眼に置いた行為であったと記憶しております。大金持ちの子弟はどのような目的を持って「留学」をされていたのかは定かではありませんが、私のように貧乏人の子倅は、30倍の競争率を第四次選考まで戦い抜き、自らを日本代表のスーパーエリートであると勘違いし、崇高な志を持ちつつ渡米したものです。あくまでも勘違いであり、所詮は相当な変人に与えられた隔離期間であったことも否定はできません。

最近では、日本経済の成長に伴い、海外駐在員の子女が親に同行しての海外学習、また、30年前では一財産と思われた渡航費、滞在費が殊のほか安くなったことにより、多くの「留学斡旋業者」が台頭し、私のように勝手にステータスが高いと信じていた官費留学生は居場所を失いつつあります。

それにしても、どうして皆さん「留学」と堂々と言い切れるのか・・・前出の「語学留学」なる気持ちの悪い言葉が市民権を得た今日、元留学生の私に対し知人が言うのは「1年間あちらで暮らしたのだから言葉ができるようになったのですね」と・・・心の底で「馬鹿か?オマエは」と呟きつつ「まあそんなものですかね」と苦虫を噛み潰しての返答をいたしますが、そもそも、留学生の役割というものは一体何でしょう?現在、役員としてこれから派遣される高校生に対し私が必ず言うことは「言葉ができるようになりたいと思って行くなら今からでも辞退しなさい」ということで、留学生に求められているのは知らない文化を少しでも垣間見ること。そしてそれは、派遣される立場の人間が一番重要な役割を持っていて例えば私が暮らした人口8千人の米国中西部の小さな村の住人にとっては私こそが日本国そのものであるということです。そして与えられた期間に自分の「日本」を少しでも理解してもらい、帰国後は自分の持ち帰った派遣国を仲間と分かち合うことでこそ、留学生の役割が果たせます。箔を付けるためだけに留学しようと思っている方へ・・・今すぐ考え直しなさい。そういうのは単なる「海外学習」に過ぎず、そのために人生のうちの1ヶ月以上を費やすことは無駄でしかありませんから。