解釈の過激化〜約十年前の駄文をそのまま掲載

「解釈の過激化」というタイトルをつけてはみましたが、実際のところ、どういうタイトルをつけるべきか悩むような事象が起こっています。1月末、「真紀子・号泣」というテロップが出つつ、テレビの画面には涙の一粒程度しか見えない田中真紀子外務大臣(当時)が目頭を押さえているところが放映されています。これ以前にも、芸能番組で「○○号泣」と言った表現が良く為されて来たので、常々気になっていたことですが、「号泣」というのはどういう意味なのか?私の人生で号泣した事は何回あっただろうか?と考えると、この号泣という行為はテレビによる表現に合わせるならば数限りなく号泣してきたのだろうと思われます。

 数年前、「言葉のスライド制」のような表現で情報言語学関連の大学教授グループと論文のやりとりをしたことがありましたが、これと類似する例として、喧嘩の際の言葉遣いがあります。確かに私がガキ(あ、いや、子供)であった昭和40年代、「喧嘩の口上」に「ぶっ殺すぞ!」はありましたが、言葉が「殴るぞ」⇒「半殺しにするぞ」⇒「殺すぞ」とエスカレートして行くものであり、はじめから「殺すぞ」には至りませんでした。「疲れた」を表現する際にも「疲れた」⇒「死ぬほど疲れた」⇒「死んだ」と表現するようになり、昨今ではちょっと疲れただけの状態を表現する際に「あ〜、死んだ」(決して「あーしんど」では無く)などと言う子供が増えています。更に、「10年早い」と若い頃良く言われましたが、最近の子供は「100年早い」という表現をしますし、時として「10万年早い」と言います。後者はお笑いで済ませられる誇張でしょうが、やはり単位が大きくなっているようです。

 もうひとつ、最近気がついた例では「中国4000年の歴史」というヤツでして、ちょっと本題とずれているかも知れませんが、どう考えても1970年代前半には「中国3000年の歴史」と言っていたような気がします。つまり、30年ほどで中国では1000年が経過してしまったのか、それとも1970年から2002年の間に中国の歴史の「3500年目」がやってきて四捨五入によりそうなったのか...前者の場合、2030年頃には「中国5000年の歴史」になるわけですね。

 エスカレーションを放置しておいても決して世の中が悪くなるとか経済が悪くなる原因になるとは思えませんが、単に私が「この先どうなっていくのだろう」という疑問を持っているのでこのようなことを書いてみたわけです。「殺すぞ!」の例で行くと、2020年頃には「末代まで祟ってやるぞ!」となり、2050年頃には「一族皆殺しにするぞ」となり、22世紀を迎える頃にはもしかしたら、「タイムマシンで19世紀に戻っておまえの祖先からして皆殺しに...」なんてことになりかねないかと思われます。

 内容がかなり「お笑い」方向になってしまいましたが、有り得ないことばかりが通常表現となっている今日この頃...「あそこのラーメン食べたら他の店では食べられなくなるラーメン屋」とか、「史上最激辛」とか「究極の○○対至高の○○」(すなわちどちらもNo.1)とか...「『絶対』なんて言葉は絶対存在しないんだっ!」という師匠のお言葉が甦って参りますわい。