金正日のメロン

9時代に駅の近くを通ると、パチンコ屋さんの前に長蛇の列ができています。その姿は昔から見かけましたが、大概暇を持て余した若者と余生を送っているであろうご老人、それも男性だけに限られていたと記憶いたしております。また、「新装開店」なるものは時として夕刻からであったりして、仕事を終えたサラリーマンがその時間帯の列を作っていたりしました。パチンコというものは額に汗して働くお父さんが百円玉数枚で楽しい一時を過ごす娯楽であり、大勝したといってもタバコが1カートンとれる程度のものであったはずです。

1980年頃、フィーバーなる機種が導入され、かれこれ四半世紀。あの頃、「あっと言う間に千円くらい飛んでしまうね」という会話が交わされていたはずですが、今ではとてつもないギャンブルと化し、それなのにあくまでも遊技場としての形態が崩れていません。1日で10万円のプラスマイナスがあるそうで、一ヶ月で百万の単位で稼ぐ人もいるそうです。そういう夢を見つつ、老若男女が長蛇の列を作っているということでしょうか?

然し、社会現象としてとらえると、この依存症、そして大きな金額の移動というのは正しい姿としては考えられません。駅近くのパチンコ店の周りには消費者金融が店を構え、パチンコ店から出てきた人がそのまま入っていく姿を良く見かけます。郊外のパチンコ店では駐車場で主婦が売春をしているという話すら耳に入ってきます。毎月百万の単位で稼ぐ人がいて、日本中にこれだけの数のパチンコ店があって、そして、それらの店が皆繁盛しているということは、この列を作っている人々の多くは「負け組」であり、相当な出費をしているはずです。

パチンコ依存症が元で多重債務者となったり犯罪に走ったり、中には自殺する人も出ているというのに、あくまでも「遊技場」であり、店そのものの存在は犯罪ではありません。これが、仮に野球の勝敗に千円を賭けると賭博罪になるという事と対比したとき、どういう理由なのかがさっぱりわかりません。敢えて理由をつけるとしたら、ある国の圧力であり、逃げ腰な日本国政府の対応の悪さであり、そして慣習として許されてしまう不思議な我が国の道徳心なのではないでしょうか。前述の通り、百円玉数枚で楽しい一時を過ごすものであれば問題はありませんが、ここまで大きな問題を見逃して良いのでしょうか。パチンコをやるという人に会うたびに私は言っております。「そうまでして金正日に高級メロンを喰わせたいか!」と。