社会貢献〜目的の無い募金活動

駅前広場に募金箱を持った学生さんが「お願いしまぁ〜す」と叫んでいるのは昔は赤い羽根の時期だけでしたが、今となっては季節の風物詩ではなく日常茶飯事と化しています。国内外を問わず天災があると募金箱を持つ人が増え、そうでなくても交通遺児育英資金だとかエイズ撲滅だとか戦地の地雷除去とかのテーマで、日々募金活動が華やかに行なわれています。

私はこの募金活動というのがどうにも好きになれません。世界平和も健やかな世の中の形成も全て賛同できますが、未だ「人が動けば金も動く」という経済理論を把握しておらず、純真な心だけで活動している学生さん(時にはそのまま大人になってしまった人やご老人までも)を利用し、裏返せば「募金するもの=善、しないもの=悪」という単純理論で洗脳しての行為であるからです。

あの募金活動で集まるカネというものはどのような使途であるのか明確に示されているのでしょうか?仮にそうであったとしても、事実上、どの程度の「経費」が差し引かれているのでしょうか?その手のボランティアを経験した人間に聞いた話では、交通費として一律2000円が支給されるとのこと。つまりは、時間単価の低いアルバイトのような部分すら見受けられます。募金活動と称して一日駅頭に立ち、箱を持っているだけでどの程度の金額がそこに投入されるのかを考えますと、相当なターミナル駅ですら1日数万円、あまり乗降客の多くない駅では1日数千円だそうです。その程度の金額であれば、わざわざ何人ものボランティアが駅頭に立つなど、経済行動としては愚の骨頂ではないでしょうか?彼等が他のアルバイトでもして、その給金をそのまま寄付すれば同じ時間で同等以上の資金集めに繋がるはずです。

というと、あくまでも経営理論による考え方だけだと反論がくるでしょうし、大勢の人間が少しずつ関わってこそ善意であるとかの考え方もあるでしょうが、この世知辛いご時世、募金活動をしている人が全て善意の募金をしているのかどうか?そして、貴方が投入した10円玉なり100円玉なりは本当に善意の為に使われているのか?という疑問を持たない方が多すぎるので敢えてこのようなことを言っている次第です。実際、托鉢層の姿で駅頭にいるグループの一部は、実は似非キリスト教系のカルト教団ですし、難民援助とか地雷除去を訴えているグループの一部は某国の工作員の資金集めであったりするのです。ポケットの小銭で免罪符を買ったつもりになるくらいなら、道に落ちているゴミをひとつ拾う行為のほうがよほど社会貢献度が高い―或いは、煙草の吸殻、噛んだ後のガムを道に捨てないという社会貢献をもっと考えましょうよ。